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2014年2月26日水曜日

城下町の風景Ⅱ ③湊築地と御船蔵

城下町の風景を見る楽しみの一つは、昔の風景と現在の風景への移り変わりを楽しめることにある。和歌山市の西の玄関口「和歌山市駅」前を東蔵前町というのも昔は水運を利用して収められた米を貯蓄する藩の蔵が建ち並んでいた場所であったのであろう。紀ノ川の河口には青岸という地名も現に残っているし、藩主の別邸であった湊御殿も地名としていまに残されている。



 

河口を行き交う船 ③湊築地と御船蔵

 湊築地から紀の川河口をみた約160年前の港湾風景です。絵図の中央には鼠島が細長く画かれ、右に紀の川、左に水軒川が流れています。遥か遠くには四国、淡路島も望めます。
 湊築地は、紀の川河口を浚渫(しゅんせつ)した土砂で護岸堤防や桟橋・荷揚場を整備した埋立地です。北の城山(現在の和歌山市久保丁)から南の大雁木(現在の同市加納町)までが湊になっていました。当時の湊は、海洋に面した海港ではなく、河川の河口や入り江に立地しました。
 手前の船は、帆を降ろし、湊西河岸(みなとにしがし)に停泊したり係留されています。護岸の石垣や雁木(階段)など港湾施設の様子は、安政2(1855)年の和歌山城下町絵図をみるとよくわかります。
 御船蔵は水軒川と隔てられた防波堤の裏側に設けられていました。紀州藩の軍船は「紀」の旗を掲げて航行しています。その奥には湊御殿、手前には御船手役所(船改番所)の建物がみえます。それらの周囲は、鬱蒼(うっそう)とした松林になっていました。
 背景の紀の川河口右岸にも「御舟蔵」「御番所」と常夜灯がみえ、左岸の青岸にも多くの船が帆を降ろしています。青岸と御前松の間には紀伊水道を航行し、湊へ入ってくる帆船の姿があり、当時、海上交通が盛んであったことがわかります。(和歌山市立博物館総括学芸員 額田雅裕)
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江戸時代の地誌書「紀伊国名所図会」の絵に色をつけ、当時の暮らしを解説する『城下町の風景』の第2弾。次回は3月12日号に掲載します。
ニュース和歌山2014年2月26日号掲載

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