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2014年1月17日金曜日

 終戦知らずルバング島30年間潜伏、小野田寛郎さん死去

日は阪神大震災から19年目の朝をむかえた。時同じくして第二次世界大戦の終戦を知らずにルパング島に30年間潜伏を続け、日本人の鈴木青年の呼びかけに応じ軍の上司の軍命により投降した地元海南市出身の小野田寛郎さん(旧制海南中学卒業で同校の先輩にあたる)が16日肺炎のため死去したことが17日報道された。ここに、最後の終戦の歴史が幕をおろしたことになる。朝日新聞地方版では「紀のひと」 元陸軍少尉 小野田寛郎さん執筆ということで16日まで連載中でしたが、きょう17日はお休みということでした。今後はどうなるのでしょうか?原稿はおそらく書き上げられていることと思いますので、小野田寛郎さんを偲ぶ意味をもこめて完結させて欲しく思います。

 
 

小野田さんは海南市小野田に所在する「宇賀辺神社」の社家の一族なので、同神社の同氏の記念碑もあり、揮毫もされているので、この際その一部をご紹介することにします。 

 

 

 

 

 

 

 

小野田寛郎さん死去、終戦知らずルバング島30年間潜伏 自然塾で育成に尽力

産経新聞1月17日(金)

画像:産経新聞のインタビューに答える小野田寛郎さん=2008年6月、東京・大手町(中井誠撮影)

インタビューに答える小野田寛郎さん=2008年6月、東京・大手町

 戦争が続いていると信じフィリピン・ルバング島に30年間潜伏を続けた元陸軍少尉で、ボランティアなどを養成する「小野田自然塾」理事長の小野田寛郎(おのだ・ひろお)さんが16日午後4時29分、肺炎のため都内の病院で死去したことが17日、分かった。91歳だった。葬儀・告別式は親族のみで行う。後日、お別れの会を開く予定。遺族らによると、体調を崩して6日から入院していたという。
 

 大正11年、和歌山県亀川村(現海南市)で生まれ、昭和19年に諜報員などを養成する陸軍中野学校を卒業後、情報将校としてフィリピンへ派遣。20年の終戦後も任務解除の命令が届かず、ルバング島の密林にこもって戦闘を続け、49年3月に任務解除命令を受けて帰国した。
 50年にはブラジルへ移住し、牧場を開業。平成元年には小野田自然塾を開設し、ルバング島での経験を基にキャンプ生活を通した野外活動などでボランティアの育成などに尽力した。近年は都内で生活し、国内各地で講演を行っていた。

   ☆                  ☆                  ☆

記 念 碑(宇賀部神社境内地)


不 撓 不 屈
(小野田寛郎氏座右の銘)
強い意志を持って、どんな苦労や困難に出会っても、決して心がくじけないこと。

(日本本来の表記法の右から左へ書いています。)。
碑文揮毫者
小野田 寛郎
(おのだ ひろお)
  大正11年海南市名高に生まれる。(本籍地小野田) 
  太平洋戦争に従 軍し、最前線のフィリピン・ルバング島に派遣
される。終戦を知らされずに30年、最後の一兵になるまで戦い抜
いた元陸軍少尉。 帰国後は単身ブラジルに渡り、未開の荒野を
開拓して立派な牧場主と なる。
  一方、日本では福島県に「小野田自然塾」を開き、青少年育成
に 挺身する。その間、著述に講演にと席の暖まる暇もない活躍を
続ける。
建立趣意
(碑の裏面)
戦後30年間、フィリピンのルバング島で終戦を知らされぬまま、
最後の一人まで戦い続けた強靱な精神の小野田寛郎氏。
その氏のモットーである「不撓不屈」の精神を、特に参拝者の
若人に身につけてもらいたいという思いで、天皇陛下御即位20年
の佳節にあたり、陛下の御慈しみに感謝の誠を捧げ、氏の揮毫の
石碑を建立した。
石碑の説明どこにでもある普通のものではない次元の石碑で、歴史の隔たり
を感じる空間、分厚い重厚な自然石に刻んだ「不撓不屈」の文字、
そこに逞しく生きる力を感じ取ってもらいたい、そういう思いが詰ま
っています。
次世代を担う若人へ人はひとりでは生きられません。社会の中で生きるには、ルール
を守り、自制することも必要でしょう。
自らの心を鍛え、自分の行動に責任を持って、逞しく、のびのびと
生き抜いて行ってください。







・碑の石質自 然 石( 青 石〈緑泥片岩〉) 愛媛県産
・碑の寸法幅140㎝ × 高さ120㎝ × 厚さ45㎝
・寄 進 者眞 鍋 茂 [東京都] 小野田寛郎氏の知友



石 碑 建 立 記 念 品
黒江漆器金屏風
置絵馬置絵馬(裏面)


 

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