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2013年7月23日火曜日

(幕間)地元・海南市は埋め立ての町(その2.戦後~臨海工業地へ)

(その2.)



最近「南海トラフ大震災」のことが、しきりに採り上げられているが、2011.3.11の「東日本大災害」は、考えも及ばないほど大きな規模で、度肝を抜かされたコトは記憶に新しい。

そこで、「防災」のことが小学生にも教えられ、地元広川町の濱口梧陵「稲むらの火」が、再び見直されて来たことは「昔の人」の教訓が活きることになり、喜ばしいこととおもう。

話は少々戻るが、地元海南市黒江にも安政の大地震のことを記録した「高濤記(こうとうき)」という古文書が遺されている。当時日方組の大庄屋を務めた柳川家に遺されたモノで、注目を浴びている。

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そして、もう一つ、大正時代から昭和初期に掛けて埋め立てられた(旧)内海町(昭和9年合併により海南市に編入された)の埋め立て記録を掲げておこう。

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こはは、大小合わせて11件、合計面積94、000坪(310,000㎡)、にも上る大規模埋め立てだったろう。地元に残る大規模開発の嚆矢とも云えよう!

そして、終戦の翌年、昭和21年12月21日、海南市は南海大震災の津波に襲われることになる。
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この地震の影響で、臨海部は地盤が沈下し、高潮時や台風襲来時には潮水が押し寄せ浸水することが多くなり、堤防の嵩上げや水門整備が相継いだ。現にわたしの家の前の防波堤も二回にわたって嵩上げ強化を行ったが、南海地震による地盤沈下で、現在は海抜0.5~1.0m、防波堤の高さ1.8m、想定される南海トラフの津波の高さが地元海南市では8mと予想されるから二階の大屋根をはるかに超える高さなので、一溜まりもない状況下にある。

時代は進み、1960年台の「高度成長期」へ突入した、田中角栄氏の代表される「日本列島改造論」の登場である。ご多聞に洩れず、日本の国の海浜という浜はことごとく臨海工業地帯となり、地元海南市においても「黒江湾」の約半分が海面埋め立ての対象となった。このことを、「海南市史」から拾い上げてみよう!
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わたしは、就職のため自宅を離れ、約10年後にUターン就職のため自宅に戻ると、何と家の前の海が埋め立てられ、臨海工業地帯と化し、目の前が塞がれてしまっているではないか!
昔は、対岸の「冷水浦」を煙をはきはき汽車が走り、ときには汽笛が聞こえたのどかな風景が消え去り、温山荘園を借景とした景観も、無骨な24時間操業の工場群に置き換わってしまった。
温山荘園の手彫りのトンネルを抜けた遠浅の海で潮干狩りができた姿は今はない!
                            
                                    

それに加えて、例の南海トラフ震災による大津波の来襲である。現在10年計画で施工中の海上浮上式防波堤工事は2011.3.11の東北大震災の地震強度でなく、それ以前の基準をもとに施工中である。これを3.11基準に見直すとなると、設計を一旦白紙にして再度行わなければならないので、従前の設計で進行中である。仮にオーバーフローすることがおきても大きな減災効果が発揮出来るであろうとの観点から、進められている次第である。
(つづく・和歌山マリーナシティーへ)

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