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2013年7月22日月曜日

(幕間)地元・海南市は埋め立ての街(その1-古代から戦前まで)

このブログで夏のイベントを中心に採り上げてきたが、7月28日の「和歌山・みなとまつり&紀州ぶんだらおどり」のあと、8月に入れば海南市では「夢・風鈴まつり(8/1~15日・同イベント3日)」・「ふるさと海南まつり」(8/13)・「下駄市」(8/14)と、目白押し!

そこでその間隙を縫って海南市の昔をひも解いてみよう!今の海南市はJR紀勢本線西側に市の主要部分が存在するが、1600年より前はJR海南駅東部の「大野郷」が中心であった。そして1390年代大野に守護所(いまの県庁に相当する)が置かれ、繁栄した場所であった。

JRの線路付近は海岸か松原で浪が打ち寄せていたと思われる。大野郷の地は古くから拓け、南北には熊野への道が通い、牟呂の温湯(今の白浜温泉)や熊野へ、平安時代には「蟻の熊野詣で」と云われるぐらいの賑わいようで、都の文化が運ばれてきた。東西には高野街道が通じ、定期的に「市場」も立っていたようだ。また、地名に残るように春日神社の祭礼に馬の駆け比べがあり、それが馬場町として遺されていて、古の繁栄振りがうかがえよう。

古の昔を歌に留める万葉集歌には、いにしえの地元の姿を偲ぶことができる。旧下津町を含めて海南には万葉集歌が14首遺されていて、このいずれもが海や磯辺や松原を詠んだ歌である。
・「琴ノ浦」=明らかに海辺、寄せては返す浪の音が琴の音がする、雅な磯辺。
・「船尾」=船ー海を往来する道具。
・「日方」=「干潟(ひがた)」から転じるて日方となる。
・「黒牛岩・黒牛潟=黒江(江は入り江のように海が入り込んだ場所を指す)
・「名高浦」=海辺を表す
・「内海」=内海にある(湾内にある)


 





















 
   天正5(1577)年3月の織田信長の紀州雑賀攻めののち同年地元で8月信長方と雑賀方の間に繰り拡げられた井松原合戦は、いまのJR海南駅付近と云われるから、その当時は松原が続く海辺と思われる。そして、海南で人工の埋め立てが始まったのは紀州徳川藩になってからである。

わたしの遠い祖先が今市付近の埋め立てを1650年代に藩に願い出ている古文書や、同じく黒江南ノ丁の海面を藩に願い出て埋め立てしている古い記録(1690/元禄比=約320年位前)も現存する。

黒江から西の船尾には「河内浜」という海面埋め立て地があり、これは河内国の人がやってきて埋め立てたので、「河内浜」と呼ばれるそうだ。日方地区には「新浜」という字があるが、これは比較的新しい埋め立てであろう。


    (同上図・部分拡大地図・江戸時代終わり頃)


現在の海南市の主要部画像=大きな埋立地で構成されている
海面が埋め立てられる前の黒江湾

冷水浦からマリーナシティー&和歌浦を臨む
 

木村平右衛門夫妻の胸像と木村の埋立地 ↓


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雑賀紀光著「海南風土記」第二十六話「 打上り」
 
打上りと云うのは魚が浜へ打ち上ることである。 黒江湾はこの打上りが極めて多かった。
黒江湾という名は割合に新しく、明治三十 三年五月、紀伊水道の大演習に明治天皇お成りのみぎり命名されたもので、元は黒 牛潟、日方浦、名高浦、冷水、中の浜等とそれぞれの名称で呼ばれていた。

ところ でこの浜は昔から魚類の産卵場になっていて、毎年旧五月、麦のはしかの海面に流 れる頃に鰯の幼魚が太刀魚に追われ浜に上り網袋にはち切れる程とれた。これを打 上りと呼んだ。 この光景を和泉の国大鳥郷船尾村の百姓が熊野参詣の途次眺め大いに感心し、元享 年間に船尾村より大挙黒江の浜に移住して来た。 そしてこの地で漁業をはじめたのである。

 現在船尾という地名はこれよりおこって いる。漁具は手操網と地漕網が使用され仲々の盛況であった。しかしそれは長くは 続かなかった。宝永の大津波によって海の様子ががらりとかわり不漁が続いた。藤 白神社の「馬角さん」を舟につんでまわったりしたこともあったが、その御利益も 一時的であった。漁業は藤白から冷水、冷水から塩津へ、更に戸坂へと移っていっ た。船尾村の人々は漁業をやめ漆器へと転業した。 舟大工達は建設業にかわった。現在黒江小学校の付近に優秀な大工さんの集まって いるのはその人々の子孫である。
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大正・昭和に入っての規模が大きい埋め立ては「木村の埋め立て地」と呼ばれるもので、旧内海町(昭和9年3町1村合併により、海南市が誕生)から藤白の地先を埋め立てた。

 これを埋め立てた木村平右衛門は、「稲むらの火」で知られる安政の大地震の津波から村民を救った濱口梧陵の血筋を引き、篤志家でかつ電力王として九州電力の前身の会社を創設するほか、地元白浜の観光開発等、地元に多大の貢献をした。
(名手不動産鑑定(株)ブログから引用)
木村の埋立地 概略
木村平右衛門氏とは?
    九州の電力王と呼ばれる実業家で和歌山でも多くの事業を興し、海南市にも大規模な埋立地を造成し、臨海工業地帯発展の礎を築いた。
■略歴
    明治14年2月6日有田郡廣村で8代目の濱口吉右衛門の7男として生まれる。
    東京で育つが木村家へ養嗣子として入籍。東京高等商業学校中退。
    明治44年九州水力電気株式会社創立時、監査役となる。
    木國合名会社という漆屋も手がけたが、大正9年に木村実業㈱・日本橋となり子息に委ねる。
    大正3年衆議院議員当選(大隈派無所属)。政界はこの一期のみ。
大正5年日高川水力電気会社創業。後に京阪電気鉄道会社に合併。日高郡に旭セメント(後の大分セメント)を創業、白浜町に白濱温泉自動車も創業。  小竹岩楠を信任し後に事業を譲渡。上山英一郎と並んで白濱を有名温泉にした功労者とされる。
  大正8年 北陸水電㈱創業時の監査役  の他、累進する中で多くの会社重役を兼務、
  昭和13年に九州電力の代表取締役社長、九州の電力王となる。
   国家総動員の強制合併での和歌山地方木材会社の社長も務めた。その他いろいろな会社の役員もされたが、概ね戦後は悠々自適されたようである。
 ■木村の埋立地 
大正3年開始、昭和2年完成の5万坪。 昭和29年時点で昭和石油会社海南製油所、富士白焼酎、山西染色工場、南海油脂会社等が所在した範囲である。他に、玉置氏の埋立地4万坪、黒江築港埋立地1万9千坪以上で海南市の三大埋立地と称した(昭和29)。
 
歴史的に黒江、船尾、日方と個人事業家等が埋立を行い市街地を形成してきたが、以降、さらに大きな住友金属、関西電力の進出、平成に入って県と松下興産による和歌山マリーナシティ埋立てにより、黒江湾は消滅した。
 
こうして見ると、自分の郷土史についての知識が貧弱であること恥じ入るばかりである。有力者間の繋がりも初めて知ることがあった。つくづく海南市は埋立てでできた街なのだと思う。私が不動産鑑定士を兼業し地歴調査でこうしたことを書くのも何かの縁であろう。 
■出典・資料
「熊峰 木村翁を偲ぶ」昭和29年6月30日発行
 海南市船尾210 岩崎辰次郎 編集・発行
発行所 木村熊峰顕彰刊行会 名高283 代表者玉置吉之亟
  木村平右衛門(8代目)が昭和28年11月23日没後、九代目が襲名の際披露として配布されたもの。
氏の業績を称えるものであるが、「木村の埋立地」を調査するにあたり、郷土史の参考のため、ごく掻い摘んで要約した。


 
また、昭和11年には日本製鉄を黒江湾を埋め立てして誘致する案が出たが、最終的には広畑に敗れさったがこの度、住金が新日鉄と合併するに及んで、住金和歌山製鉄所海南事業所が、日鉄住金の一部門になるなど、"歴史は繰り返す”と、いわれるようで興味深くて面白い。

  (クリックで拡大します・大きくしてご覧下さい、いまでは殆ど忘れられた歴史の一コマです)

ここまで戦前の黒江湾の埋立の状況を説明してきました。戦後復興期・高度成長期や平成期に入って人工島「和歌山マリーナシティー」の埋立・造成については項を改めて紹介することにいたします。このように海南市の主要部分は殆ど埋立地にあることが理解できたとおもいますが、反面、それ故に高潮・津波の被害に絶えず悩まされて来たことも事実です。   (つづく)

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