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2013年7月10日水曜日

和歌山大空襲から68年、記念の法要が行われる !

和歌山大空襲から68年、「不戦の誓い」新たに記念の法要営まれる !7月09日 

               

68年前の和歌山大空襲の犠牲者を悼む追悼法要が9日午後、和歌山市西汀丁の汀公園で行われ、遺族らが供養塔の前で手を合わせました。

亡くなった人を悼む参列者
亡くなった人を悼む参列者


 「和歌山市史」(第3巻)によると、戦争末期の1945年7月9日深夜、和歌山市内は南西方面から侵入した爆撃機B29による焼夷(しょうい)弾攻撃を受けた。市民が敵機襲来を知ったのは爆撃の直前で、「あらゆる防空訓練は全く役に立たなかった」という。
 

 旧県庁跡として広大な空き地だった今の汀公園と周辺には、多くの市民が避難していた。だが、炎が渦巻きになって各所から襲い、避難者は退路を断たれ、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の様相を呈し、和歌山城周辺では748人が死んだ。

 一連の空襲で市内では約1400人が犠牲になったとされる。 このとき和歌山市のシンボルで徳川御三家の一つ紀州徳川藩の名城である「国宝・和歌山城」も爆撃により破壊され、全焼した。

きょう午後1時から行われた法要には遺族や近くの小中学生らおよそ250人が参列し、空襲で亡くなった人を悼むと共に不戦の誓いを立てていました。



15歳の時に空襲に遭い、当時21歳の姉を亡くした細畠清一(ほそばた・きよかず)さん83歳は「空襲の時、逃げる場所がなく、警防団に『和歌山城の堀に飛び込め』と言われてその通りにしたことを今も覚えています。法要には毎年来ていますがこういう形で法要してもらえるのはありがたいことです。」と話していました。

和歌山市社会福祉協議会によりますと遺族が高齢化し、参列する人が遺族の子や孫の世代に移ってきていることから参列者は去年より50人ほど増えたということです。

 主催した和歌山市戦災遺族会の理事長を務める吉田フミ子さん(84)は「長い年月が過ぎ去った今でも、目を閉じれば地獄のような光景がよみがえり、万感胸に迫るものがあります」「私たちには、悲惨な戦争の教訓を風化させることなく次世代に継承し、命の重み、平和の尊さを訴え続けていく使命があります」と、追悼の言葉を述べた。

千羽鶴を渡す中学生
千羽鶴を渡す中学生
 
 法要には近隣の小中学校の児童生徒も加わり、各学校の代表者が吉田理事長に千羽鶴を手渡した。県関連の与野党の国会議員らも参列し、不戦の誓いと恒久平和の祈りを捧げた。

この「和歌山大空襲」の報道は,大手新聞各社や和歌山放送(WBS)が採り上げていましたが、地元ローカル紙「ニュース和歌山」が,今から8年前の2005年の大空襲から60年という節目のときに”この街で戦争があった~和歌山大空襲60年”を7回シリーズで紹介されたので、リコール60年として、その第1回掲載を引き戻して掲載しよう。

関心をおもちの方は同社HPにアクセスして、左に並ぶ項目から「特集」⇒「過去の特集」⇒「この街で戦争があった~和歌山大空襲60年」を開いてご覧下さい。

  ☆                ☆                  ☆
風化させてはならない戦争体験、空襲体験!和歌山大空襲(1945.7.9~10)から68年、この昭和20年生まれが、68歳を数える年令になる今日、戦争や空襲の悲惨さを後世に伝えてゆく想いが強い!

・「ニュース和歌山」HP:アドレスhttp://www.nwn.jp/ 

 
 わたしと家内の和歌山大空襲体験は,次の通りです。
時、わたしは海南市黒江に住んでいて、この日の夜は空襲警報発令で、防空壕に避難し、北 にある低い船尾山越しに、北にあたる和歌山市が夜空を真っ赤に染める空襲を目の当たりに見た。
直線距離にして約10km、強く印象に残っているのは焼夷弾である。赤い火の塊が落下して     きて落下途中で数十個に分かれる。
それが火の粉のように爆撃を受けて逃げ惑う避難者の上に注がれる。わたしは当時国民学校  5年生、満11歳だっただけに、未だに鮮明に記憶している。

 一方、家内は3年生で9歳、店と家は和歌山市で最大の繁華街と云われた「ブラクリ町」のど    真ん中で,屋号「明治屋」という名で、輸入食料品のバター・チーズ・ジャムやコンビーフなどの    缶詰を取り扱い、大いに栄えていたそうだが爆弾が投下され、建物ゴト吹っ飛んだとか!
 どこをどう逃げたか記憶は定かでないが、約5km東南の竃山神社まで逃げたそうだが、         そこで夜が明け始めたそうだ。空襲ですべてを失った一家は疎開から始まって苦難を強い        られた数年が続く。

 このように二人とも戦争体験をもつが、われわれ世代は戦争の悲惨さを知る最後の世代で     はなかろうか?少なくとも当時5歳位でないと、記憶はおそらく頼りないのでは、と思う。

戦争の悲惨さを知る人々が少なくなる一方で、生きてはいても認知症等で記憶が定かでない    人達をのぞけば、これを次の世代にどう引き継いでゆくかが大きな課題だと思う。
今の内閣は憲法改正に極めて積極的、軍備増強等、自衛力強化で留まっているうちはいいが、"目には目を、歯には歯を”が今までの歴史が歩んだ通り過ぎた道であることを教えて呉      れる。

戦争だけは絶対なくして欲しい!やるにせよ!やられるのせよ!               


         
 
この街で戦争があった 和歌山大空襲60年(1) 8月15日、太平洋戦争終結後60年を迎える(2005年)。それに先立つ7月9日は、和歌山市が大空襲に見舞われた日。
アメリカ軍B29の落とす焼夷弾が、シンボル和歌山城をはじめ、市中心部を一夜にして焼け野原へと変貌させた。
しかし、戦後復興から高度成長期、バブル期を経て、戦争の爪痕を現代に伝える場はかすみ始めている。
いま、和歌山城は再建され、何事もなかったようにそびえ立つ。だが、現代人が平和に日々の    生活を送るこの場所で、60年前に確かに戦争はあった。その事実を次代へと継承してゆく。
 


       

石垣に掘られた防空壕
掘られた防空壕
  ①のみ転載

      
和歌山が初めて空襲に見舞われたのは1942年4月、粉河、岩出への機銃掃射だった。和歌山市は45年1月、いまの和歌山駅付近が爆撃されてから8月14日まで10数回、標的にされた。
 

 最大の被害を受けたのが、7月9日午後11時半から3時間半にわたる大空襲。B29約50機(100機とも250機とも)が紀の川北部の湊地区から中心部にかけ爆撃を加え、市民の7割が被災し、死者は1200人にのぼったといわれる。
 

 特に中心部は、和歌山城天守閣が焼け落ちたのを始め、あたり一面が火の海と化し、避難場所となっていた県庁跡(現・汀公園付近)、また、市堀川周辺で多くの人が亡くなった。
 

 だが、崩れ落ちた和歌山城の真下に、多くの人の命を救った場所がある。石垣に掘られた防空壕だ。二の丸庭園の東、伏虎像の東の角を南に曲がってすぐの石垣に、防空壕の入口があった。
 

 城の近く、中橋付近に住んでいた東山行男さん(72)は、現在の伏虎中学校の場所にあった番丁国民学校6年生だった。空襲時は紀の川へ避難しようと中橋を越えたが、行く手を火に阻まれた。

ほどなく中橋も焼け落ちたため、市堀川に飛び込み、下水管の中に身を隠して生き延びた。
 戦後、石垣に防空壕跡があったことを覚えている。「戦後10年ほどは入口の穴があいたままになっていました」と東山さん。
「壕はいくつもあったように思いましたが、いま分かるのは1カ所だけ。ここは木と自然岩の間を掘ったのでしょう。穴をふさぐための石が三角形に積み上げられていますが、他の石垣の積み方と異なり不自然です」
 

 防空壕については、二の丸庭園東側で飲食店「湖月」を営んでいた柏田直茂さん(76)が覚えている。「私は学徒動員で相生の播磨造船に行っていましたが、和歌山が空襲にあったと聞き、翌日すぐに戻ってきました。母や妹、弟がこの中に入っていて助かりました」
 

 防空壕は東山さんが指摘するように石垣東側に入口があったが、伏虎像の西にも2カ所入口があった。柏田さんは「壕は東側から西に向かって数10メートル続いており、途中に北側から入れる入口がありました。ここは岩盤ですが、軍が掘ったので、すぐに完成したはず」。
 

 中は何百人も入れるほど広く、空襲の時はぎゅうぎゅう詰め。「『座れと言われたが、座る場所もなかった』と母親が話していました」
 

二の丸には8棟の建物があり、空襲で商品陳列所など7棟が焼け、また、大きな松が熱気で枯れてしまったほど。柏田さんは「幸い、湖月や千鳥、樟守神社は残りました」と振り返る。
 

 3カ所の入口跡はいずれも石が積み上げられ、通り過ぎるだけでは壕が存在したことに思いが及ばない。
 だが、確かに60年前、この上で和歌山城が一瞬にして焼け落ち、目の前が火の海と化した中、壕に逃げた数百人が命をながらえた。
写真=防空壕の入口があった場所を指す東山さん)
参考=『和歌山市戦災誌』
                

 

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