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2013年7月10日水曜日

東京電力・福島第1原発の事故対応の現場指揮をとった吉田昌郎元所長がきのう9日死去!

事故は現場で起こってんだ!本店じゃない」東電・福島第1原発の吉田元所長死去…最悪事態回避の功労者:/7/10

福島第一原発の吉田昌郎元所長が死去 事故時に現場指揮



写真:報道陣の質問に答える吉田昌郎元所長=2011年11月、東京電力福島第一原発
報道陣の質問に答える吉田昌郎元所長=2011年11月、
東京電力福島第一原発
写真:福島第一原発の免震重要棟で、報道陣の質問に答える吉田昌郎所長(中央)。右隣は細野豪志原発相(いずれも当時)=2011年11月12日、福島県大熊町
福島第一原発の免震重要棟で、報道陣の質問に答える
吉田昌郎所長(中央)。
右隣は細野豪志原発相(いずれも当時)2011年11月
12日、福島県大熊町
写真:東京電力福島第一原発の吉田昌郎元所長=東電提供
東京電力福島第一原発の吉田昌郎元所長=東電提供

 2010年6月から所長を務めた。11年3月の東日本大震災で過酷事故が起きた後、免震重要棟に残り、9カ月間にわたり現場の作業員らを指揮した。テレビ電話を通じて本店との調整役も担った。
 事故対応では、1号機の原子炉格納容器の圧力を下げるためベント(排気)を指示した。
 東電上層部から原子炉を冷やす海水の注入停止を命じられたが、テレビ会議では中断したように見せかけ、独自の判断で注水を続行した。この行動は一部で英断と評価された。
 一方、政府の事故調査委員会の報告書は、福島第一で原子炉への注水に必要な事前の準備が不十分だったと指摘。原子力設備管理部長を務めていた08年には、大津波の試算結果を知りながら対策を取らなかったなどと批判した。
 大阪府出身。東工大大学院で原子核工学工学を専攻した。1979年4月の東電入社後は、福島第一、第二を含め、原子力部門で長く働いた。
 事故後に判明した食道ガンの療養のため11年11月に入院し、福島第一原発所長を退いた。12年7月には脳出血で緊急手術を受け、自宅で療養していた。
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”信念の人だった”と思う!2011.3.11の東日本大震災の想定外といわれたなかで、原子炉の全電源喪失という最悪の事態の中で東電本店とTV電話で喧嘩しながら、過酷な最悪事態の中でも現場を守り抜き、「事故は現場で起こってんだ!本店じゃない」と本店と対立してまでも現場を守り抜いた、まさに現場主義に徹した「信念の人」だったと思う。

 
   東京電力・福島第1原発の事故で、事故対応の現場指揮をとった吉田昌郎元所長がきのう9日(2013年7月)、食道がんのため死去した。58歳の若さだった。
東日本大震災による津波で全電源喪失という事態から、原子炉建屋の爆発、メルトダウン、汚染の拡大と、世界の原発事故で最悪の事態となった。事故発生から食道がんがみつかって退くまでの8か月間、休んだのは4日間だけだったという。

東電は被ばくとの因果関係否定

   「本店! 大変です。3号機が爆発。多分、水蒸気爆発だと思う」というナマの声が残っていた。福島と東京とを結ぶテレビ会議の声と映像だ。「ただ水を入れりゃいいと思ってたのかよ。周りでわれわれが見ているんだぜ。それで爆発したら死んじゃうんだぜ!」

   時に本店の指示を無視した独断が事故拡大を救ったこともある。
   2011年11月入院。12月に所長も退いたが、そのとき「福島県のみなさま、日本国民のみなさまに心よりおわび申上げたい。まずそれが第1 です」といっていた。事故当初については、「(3月11日の)1週間、『死ぬだろう』と思ったことが数度ありました」とも話していた。
   手術を受け12年2月に退院したが、7月に脳出血を起こして入院、治療を受けていた。死因は食道がんというが、詳細は明らかでない。懸念は、被ばくとどれだけ関係していたのかだ。東電によると、吉田氏の8か月間の総被ばく量は約70ミリシーベルトで、基準値の100よりは低く、年間50 という制限は超えているものの、事故当時は250ミリシーベルトという特別の設定があったため、これにも触れない。東電は「ガンなど影響が出るのは5年かかるため、被ばくが原因とは考え難い」としている。

「所長が吉田さんじゃなければ、海水注入止めてたかもしれない」

   司会の小倉智昭は「指揮をとりながら、きつい局面もあったと思う。その意味では命を賭してがんばった」という。小倉は吉田氏が東工大を出て、 通産省に内定していたのを東電に変えていたことを紹介して、「3.11でもし通産にいたらとぞっとした」という。どういうことかというと、この3月に小倉が第1原発を取材した際、「原発が最悪の事態を免れた要因は?」ときいたとき、「吉田所長じゃないか」 という人がけっこういたのだという。「吉田さんじゃなかったら、海水注入をやめていたかもしれないし、どうなっていたかわかりませんね、という言葉を聞くとね」
   吉田氏はまた福島でのシンポに病床からビデオレターをよせて、復帰への意欲を示していた。小倉は「無念だろうなと思います。ある意味日本を救ってくれた人」と話を結んだ。


わたしも約1ヶ月前に関西電力と電話で大喧嘩をしたことがある。正確な日時は忘れたがある日の15:30頃パソコンを操作していたとき、突然停電した。すぐに復旧するだろうと思い、しばらく経っても停電が続いた。電話も繫がらない。仕方がないので、家内を近所にゆかせて停電になっている範囲を調べに使わした。そうしたら附近一帯が停電していた。200mほど東にある国道の信号機も消灯している。近所にある県立自然博物館では停電のため急遽自家発電装置を駆動して発電していた。というのも水槽内に酸素を送ったり水を循環させたりで電気は不可欠。何時になったら復旧するのか心配という。遠くでパトカーが停車した状態で、サイレンを送り続ける音が聞こえるが、どこか見当がつかない。わたしのパソコンは停電により大事なソフトがおかしくなった。やがて40分も経ってようやく復旧し電気が通じた。その間広報車で停電を知らせる広報はなし。

明けて翌日、普段より朝早く起きてパソコンのリカバリーに従事した。そうしていたら05:45ごろ、突然再び停電した。この停電は5分間ぐらいですぐに回復した。パソコンの不具合も何とかリカバリーした。

こういうことがあったので、その日の昼前、関西電力の担当窓口に照会の電話を入れた。
(S:わたし・K:関西電力お客様窓口担当)
S:昨日午後16時前と今日の早朝、停電がありましたね!その理由と停電の広報のあり方について
 おたずねしたいのですが、それとそのときのお知らせのあり方について教えて下さい。
 わたしは何らの広報に接していないのですが・・・!
K:昨日その時間に国道で突発の交通事故が発生し、そのため国道沿いにある当社の高圧変電装置が損傷し、そのため突発停電のやむなきに至りました。(事故があった現場は自宅から約1km東に行った国道で女性が運転する車が無謀運転で、それを避けようとしたトラックが関電の高圧電気変電装置に衝突し壊したことで発生したモノ。関電も被害者であるとの口ぶりが伺える)
S:それでは、突発停電は致し方ないとしても、突発停電の原因と復旧見込み等のお知らせをされ ましたか?われわれのところは全然何も聞こえて来なかったですが・・・自然博物館は本当に困っていましたよ。わたしもパソコンを触っていて入力したデータを消失してしまいましたが・・・
K:事故が起こった附近は知らせて廻りました。
S:われわれは全然聞いていません。こんなことでは本当に困ります。それでしたら改めて聞きますが、この電源装置がトラブったら、停電する範囲は分かっているのですか?
K:分かります。
S:それなら本当に困ります。何故停電の範囲がわかるのなら、知らせてまわれないのですか?
K:(無言)上司に云っておきます!
S:あなたが担当窓口なんでしょう!上司よりも窓口がシッカリして下さい!お役所仕事はウンザリです!もっと現場に立った現場主義で的確な対処を今後して下さい!
ざっとこんな調子の応答が約10分間、それにしても何たるお役所仕事!それ以上かも?
結局関電も被害者だと云わんばかりの態度がありありと伺えた!
わたしの住所・氏名・電話番号等知らせておいたが、謝罪の連絡は来ず仕舞い。何たる役所仕事か! 2年前の東電の原発事故も社内でどうにも出来なくなってようやく国へ報告したのではなかろうかとも、勘ぐりたくなった一幕でした!

 

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