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2013年5月14日火曜日

紀ノ川で見つかった巨木の行方はどこへ・・・?

昨年8月紀ノ川で見つかった巨木は陸上に引き上げられて現在に至るが、このブログでも”流れ流され、どこから来たの?”としてアップしたが、 調査の結果、「古墳時代のモノ”と判明し、県立紀伊風土記の丘に展示するのが同じ古墳時代ということで最もよいだろうという結論が出て、運搬の都合で今日まで置かれたママだったが、13日から保存処理や運搬作業が開始された。

なにしろ、重くて大きいので分割して運搬、同風土記の丘で再組み立てして展示する予定。

昨年ブログアップした記事をご覧下さい!
・「流れ流され、どこから来たの?紀ノ川に大楠漂着!」2012.10.13
                  http://o-shige3.blogspot.jp/2012/10/blog-post_13.html

 ・紀ノ川の巨大流木 保存・運搬へ作業始まる ・ 05月13日 :「わかやま新報」


巨大流木の保存処理や運搬作業が始まった
巨大流木の保存処理や運搬作業

   昨年8月に紀の川から和歌山市の六十谷橋下に引き上げられた直径約4㍍、 周囲約12㍍を誇る巨大流木(クスノキ)が同市岩橋の県立紀伊風土記の丘で保存、 展示されるに当たり、 13日から保存処理や運搬作業が始まった。

 同施設によると、 巨大流木は古墳時代頃に生育しており、 350年後(推定樹齢)に成長が止まっている。 この歴史的モニュメントを多くの県民に体感してもらおうと、 同時代に築造された岩橋千塚古墳群とともに、 同施設で保存、 展示されることが決まった。

 作業では巨大流木をチェーンソーで縦に3~4分割し、 6月上旬に施設へ運び込む予定。 今後は流木切断のために洗浄作業を行い、 泥などを洗い流していく。

 運び込んだ流木は施設で保存し、 展示に向けて組み立てる。 展示は来年2月ごろを予定している。

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なお、この運搬の様子がTV毎日で動画発信されています。序でにご覧下さい!

    http://www.mbs.jp/news/kansaiflash_GE000000000000000981.shtml


この大楠は保存作業のため、横倒しにして洗浄などしていたとき、内部が大きく空洞化していることが判明しました。目下作業は続けられています。

■横倒し洗浄、紀伊風土記の丘で展示へ ・・・


 昨年8月に紀ノ川から和歌山市六十谷の河川敷に引き上げられたクスノキの巨木について、県立紀伊風土記の丘(同市)での保存・展示に向けた“引っ越し”作業が進められている。15日には、巨木を横倒しにして洗浄。内部の空洞の様子が初めて明らかになった。

 巨木は平成23年9月の台風12号による豪雨災害時に紀ノ川で見つかり、昨夏、クレーンで引き上げられた。高さ約7メートル、直径約4メートル、重さ約40トン。西暦350年(古墳時代)~700年(飛鳥時代)ごろにかけて生育していたとみられ、樹齢は約350年。県教委は、自然が育んだ歴史的なモニュメントとして巨木を県立紀伊風土記の丘で保存・展示することを決めた。

 この日は、発見場所に近い河川敷で巨木の洗浄を実施。大型クレーンでゆっくりと横倒しにすると、直径の半分程もある大きな空洞が姿を見せた。作業員らは高圧洗浄機で内部を丁寧に洗い、移送のため大きさの計測などを行った。

 空洞について県教委文化遺産課は「クスノキは密集して育つことが多く、近くの何本かが合体することもある。この個体も、長い年月をかけて複数のクスノキが合体したときにできたのでは」と推定している。

 作業を行った木徳(きいとく)林業(有田市)の担当者は「樹皮の多くが残っているので上流から流されてきたのではなく、この近くで成長したと考えられる」と指摘。「現代のクスノキとも違う、お香のようなにおいがするので驚いた。飛鳥時代の香りかも」と感慨深げに話していた。

 今後、紀伊風土記の丘へ運び込むため、トラックに積載可能な大きさに切断する作業や防腐処理などを行い、6月15日までに移送する。紀伊風土記の丘で切断した部位を元通りに組み立て、来年2月ごろに一般公開する予定。                         以上

2 件のコメント:

  1. ご無沙汰していて、失礼いたしました。
    PCを変えてブックマークをまだ移行していなかったのですが、「しげやん 和歌山」でグーグル検索するとトップにこのブログが出てきました。
    すごいですね!
    この巨木のこと気になっていたんですよ。
    飛鳥時代の香りが残っているとはすごいですね。
    コメント欄でときどきおみかけする「モノノフ」さんは、そんなすごい方の末裔だったんですか。
    和歌山は奥が深い場所ですね♪
    これからまた4月のブログ書きの追い込みです。。。

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  2. megさん
    ようこそおいで下さいました。和歌山は今は見る影もありませんが
    かつては、飛鳥の都から紀ノ川を下り、万葉集にも多くの歌が残され
    ているように、また都人には海は憧れの場所だったに相違ありません。
    どの歌も海を見たときの感動がそれを物語っております。
    また海をもつ紀州は船により往来が自由で、おそらく外国にも往古から
    行き来していたのでしょう。それを物語るわが国でもまれな発掘物が
    出土します。紀北を支配していたのが、紀氏、和歌山市南東部に「岩瀬
    古墳群」という数百にも上る古墳の主で、紀氏は古代政権にも関わって
    いた氏族で、歌人の紀貫之もその一人です。有間皇子の変で有名な
    斉明天皇が行幸した牟呂の温湯(白浜温泉)は650年代のこと、平安
    時代になると「蟻の熊野詣で知られる上皇の熊野詣で都の文化が紀州に
    もたらされましたので、居ながらにして都の文化が入ってきました。
    時代が下って紀伊徳川藩に」なると御三家の一つとして栄え、独自の高い
    文化水準を誇っていましたし、紀州+勢州55万5千石で、伊勢の松坂
    も領地で、そこには三井家や国学の本居宣長等がおり、宣長は藩に召し
    抱えらレ、子孫は藩にて国学を教えました。
    また8代将軍吉宗は御三家の加えて自らの子供を御三卿として3家を
    拵え、これらが後々の政治を支えました。吉宗以降の将軍をみると紀州藩
    が多くの将軍を輩出しています。
    明治に入ると坂本龍馬の片腕だった陸奥宗光がカミソリ外相、濱口梧陵が
    一時期逓信頭(郵政大臣格)を務めるなど明治政府をも支えました。
    熊野信仰、八咫烏、雑賀衆、高野山の空海の真言宗、根来寺の覚ばん上人に
    よる新義真言宗、西行、明恵、宗祇等の高僧や歌人等挙げれば暇がありません。
    いまはすっyかり陰を潜めていますが、わたしがブログを立ちあげたとき念頭に
    あったのは歴史ある紀州のかつての文化=温故、それに創新、新しくは松下
    幸之助の松下流経営、ミノルタカメラの光学技術、ビタミンB1の発見者等、
    湯川博士、数学者の岡潔ら偉人を傑出しています。これらを再発掘する気持
    からです。長文お許しを・・・!

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