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2012年12月7日金曜日

古典芸能世界の悲喜交々「娘道成寺と中村勘三郎」(悲の部)


18代中村勘三郎
 最近、古典芸能の世界で悲喜交々のできごとがあった。 5日未明、歌舞伎界を背負ってたつ第十八代中村勘三郎さん(57)の若すぎる死であり、歌舞伎界に留まらず芸能界のエースであり、そのお人柄から大勢のファンがおり、「京鹿子娘道成寺」を十八番とした名優、道成寺にも度々参詣祈願に来られ、地元でもひときわ人気が高かったし、道成寺がある有田川町の玉置町長は歌舞伎などを上演できる劇場の建設まで検討していたくらい、、勘三郎さんも「こけら落とし」には是非に、と熱望していたくらい地元とも昵懇な関係にあっただけに「若すぎる死」には悲しみはひときわ深い。

 

明けて6日、紀南の「那智の田楽」が世界無形文化財に、世界の優れた伝統文化としてユネスコ=国連教育科学文化機関が保護の対象とする「無形文化遺産」に和歌山県の民俗芸能、「那智の田楽」が、新たに登録されました。これは歌舞伎俳優中村勘三郎氏の若すぎる死の悲しみとは対照的に喜びになる。ユネスコの無形文化遺産登録を待ち望んでいただけに関係者の喜びは一入大きかろう。

 

一日違いで悲喜交々の対照的なできごとがあったが、まづは「道成寺」と歌舞伎俳優/中村勘三郎さんと「道成寺」の関係、そして「若すぎる死」から始め、次回は「那智の田楽」について語ることにしよう。

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・「道成寺」芸能における「道成寺モノ」について!


歌舞伎・京鹿子娘道成寺

古典芸能の世界で「道成寺モノ」と云われる出し物がある。この「道成寺」とは紀州・日高の道成寺を指すが、道成寺にまつわる「僧・安珍と清姫」の物語は、能楽や歌舞伎の題材となり、「道成寺物」と呼ばれる演目を生みました。その数は優に100を超えます。下に代表的な出し物を紹介しましょう!

能楽


能楽

道成寺物の原点が能楽『鐘巻』、『道成寺』です。能の最重要曲の一つであり、若手能楽師にとっての登竜門でもあります。


歌舞伎
歌舞伎

成寺物の中で、最も人気の高いのが『京鹿子娘道成寺』でしょう。他にも『二人道成寺』、『奴道成寺』、『傾城道成寺』などがあります。

文楽
文楽

能楽『道成寺』や歌舞伎『京鹿子娘道成寺』が安珍清姫伝説の後日談として作られたのに対し文楽の『日高川入相花王』(ひだかがわいりあいざくら)は、清姫本人も登場する、よりオリジナルに近い作品です。通し狂言の大作で今では「日高川渡し場の段」が好んで上演されます

 

広い意味での『道成寺物』

道成寺物は、古典舞踊に限らず、美術、文学、現代芸術など、ほぼ全ての芸術分野に取り入れられており、毎年のように新作が生まれ続けています。

映画・「娘道成寺」蛇足の恋
 

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 これらの演目のなかで、歌舞伎の世界で歌舞伎役者だけに留まらず、スーパー歌舞伎や映画・現代演劇・NHK紅白歌合戦の総合司会等、まさにスーパーマルチタレントとして大器がまだまだ成長が期待され、度量の大きなスーパースター間違いなしと期待されるなか、余りにも早いその死を悼む声が各界から挙がった。わたしもそう想う。ご冥福をお祈りしたい。  合掌

  

中村勘三郎さん死去・道成寺や日高川町長も追悼

5日未明、57歳で亡くなった歌舞伎俳優の十八代目・中村勘三郎(なかむら・かんざぶろう)さんは、今から7年前(2005年)、襲名披露公演の成功のお礼と報告のため、家族で日高川町の道成寺を参拝していました。道成寺の小野俊成(おの・しゅんじょう)住職は「歌舞伎界の大御所のひとりで、とくに道成寺を大切に思って下さいました」と振り返り、早すぎる死を悼んでいました。

襲名披露公演成功の報告に訪れた中村勘三郎さん(左から2人目)一家
(2005年4月・日高川町道成寺にて・日高川町撮影)

勘三郎さんは、十七代目・中村勘三郎の長男で、五代目・勘九郎(かんくろう)として、立ち役(たちやく)・女形(おんながた)、いずれも優れた演技を見せました。

2005年4月の東京の歌舞伎座で行われた十八代目・勘三郎の襲名披露公演では「京鹿子娘道成寺(きょうがのこ・むすめどうじょうじ)」を演じ、公演成功のお礼と報告に、妻の波野好江(なみの・よしえ)さんと、息子の六代目・勘九郎さん、二代目・七ノ助(しちのすけ)さんら一家で道成寺を参拝しました。

 

道成寺の小野住職は「33年に一度の本尊ご開帳の際、家族で参拝され、特に勘三郎さんは丁寧に拝んで下さった。素晴らしい歌舞伎俳優で、人間的魅力にもあふれた人だった。天の上から家族と歌舞伎界の発展を見守ってくれると思う」と述べ、早すぎる死を悼みました。

 

また、当時、地元の観光協会の会長だった日高川町の玉置俊久(たまき・としひさ)町長は「けさニュースで訃報を知り、職員にもメールで伝えた。香川県・金刀比羅宮(ことひらぐう)の金丸座(かなまるざ)のような古典芸能の舞台を道成寺に作る構想を話したところ、『私にこけら落としをやらせて欲しい』と強い関心と意欲を見せていただけに、あまりにもショックだ」と振り返っていました。

 

中村勘三郎ゆかりの道成寺は

歌舞伎界きっての人気俳優中村勘三郎さんが亡くなったことを受け勘三郎さんが当たり役といわれた娘道成寺の上演のたびに訪れていた日高川町にある道成寺では勘三郎さんの写真を掲げて弔意をあらわしていました。

歌舞伎にとどまらず、大河ドラマなど幅広く活躍した中村勘三郎さん関西にも上演などでよく訪れていました。

 

なかでも、勘三郎さんは得意とした歌舞伎舞踊「京鹿子娘道成寺」の舞台の道成寺をしばしば訪れていました。

 
 
 
勘三郎さんは、娘道成寺の上演が決まるたびに、道成寺を訪れて成功を祈願していたということです。道成寺の建物の一角には生前、中村さんが娘道成寺を舞った舞台の華やかな写真が掲げられ、寺にゆかりの名優の早すぎた死を惜しむ人たちが集まっていました。

道成寺住職の小野俊成さんは「中村勘三郎さんは歌舞伎を通して人生のすばらしさ、そして最後に命の尊さを教えてくれた。人間としても立派な人でこれから勘三郎さんの遺志を道成寺でも伝えていきたい」と話していました。

 

道成寺のある日高川町では町のPRにもつなげようと歌舞伎などが上演できる劇場の建設を検討しており、中村勘三郎さんがこの話をきいて「こけらおとしの舞台」にはぜひ自分の歌舞伎をかけさせてほしいと生前約束していたということです。

 

日高川町の玉置俊久町長は「気さくな人柄で、勘九郎さんなど息子たちに道成寺の事を教えたいと家族で訪ねてこられました。日高川町にも多くの財産を残してくださり芝居小屋ができればこけらおとしの公演をお願いしたいと思っていたのですが、非常に残念です」と話していました。

 

次はこの度指定された「那智の田楽」に移ります。

2 件のコメント:

  1. ばっちゃん。2012年12月8日 8:28

    更に悲しくなりました。

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  2. ばっちゃんさん
    よくぞ、お越し頂きました。
    この道成寺には名物「安珍清姫」の絵説き説法が有名で
    御座るし、住所も「鐘巻」と申します。安珍清姫物語は
    よくご存じと想いますが、清姫の情炎は、石川さゆりの
    「天城越え」をはるかに上回る執念の御座いまする。
    鐘に恨みはなけれども・・・!おお、こわ!
    勘三郎さん、この若さで世を去ったとは、残念至極!

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