ブログ アーカイブ

2012年9月18日火曜日

遙かなる時空を超えて神武東征の足跡をたどる!

 さきに2010年は平城京遷都1300年に当たり、「平城京遷都1300年まつり」が開催されて古都奈良の都は大いに賑わったが、今年(2012)は太安万侶(おおのやすまろ)が『古事記』を撰上した和銅5(712)年から丁度1300周年の年になる。

初代天皇となるカムヤマトイワレヒコが日向高千穂峰から兄のイツセノミコトらとともに日向を発ち、東征の長路を辿るが、紀国は神武天皇ととりわけ関係が深い。

ついては過去にこのブログでも即位前の神武天皇と熊野との関係を綴ったが、今年は古事記編纂1300周年の節目の年にあたり、復習の意味を込めて古事記から関係箇所を端折って引用することとしよう。
神武東征の足跡
 カムヤマトイワレヒコノミコトは兄のイツセノミコトと「この日向の国はあまりにも端に偏している.天下を安らかに治めるにはどの土地に移って政を執ったならもっと満足がゆくだろうか、もっと東の方へ行ってみたらどうだろうか?」このように相談が整い、早速日向の国を発ち、のちの筑前筑後である筑紫の国へと向かった。
その途中のちの豊前豊後である豊国の宇佐を経て筑紫の岡田の宮に1年ほどいた。またそこからさらに上ってのちの安芸ノ国の多祁理に宮に7年ほどいた。
また、その国からさらに東に上って吉備の高島の宮に8年ほどいた。
こうしてさらに、吉備の国から東へ東へと上って行ったが、やがて一行の船は波荒く立ち騒ぐ波速の渡(なみはやのわたり)を過ぎて波静かな白肩(しらかた)の港に停泊した。
その時、登美の地に住むナガスネヒコが軍隊を起こして東上してきた船を待ち構えて一戦を挑んだ。

 そこで一行は楯を取り岸辺に下りて防戦した。それゆえに、この土地の名を楯津(たてづ)と言い、また今に日下の蓼津(くさかのたてづ)とも云っている。こうしてナガスネヒコの軍隊との戦が今をたけなわの時に、ナガスネヒコの放った矢が,兄のイツセノ命の手に鋭く突き刺さって深手を負わせてしまった。
 そこでイツセノ命が云うには「わたしは日の神ノ御子なのだから、敵を東の方、すなわち太陽の方向に置いて戦うのは、よろしくないことだ。それゆえに賤しいナガスネヒコがごとき者に痛手を受けたのだ。いまから道を迂回して太陽を背に負う陣形を敷いて敵を撃ってやろう。」

 このように誓いをして南の方に迂回したが、のちの和泉灘である血沼の海(ちぬのうみ)に至って傷を受けた腕を洗った。それゆえ、ここを血沼の海(茅渟の海)と言う。そこからさらに迂回して進んで行くうち紀国(きのくに)の男之水門(おのみなと)まで行ったところで「賤しい奴のために手傷を負って今は死ななければならないのか!」
このように奮い立って雄たけびの声をあげると、ついにその息は途絶えた。この雄たけびのゆえに、この場所を男之水門(おのみなと)という。陵もまた同じ紀国の竃山にある。

兄君を葬ったカムヤマトイワレヒコトノ命は、悲しむ暇なく軍隊を引き連れて、さらにその地から迂回しつづけ、やがて熊野の村へと辿り着いた。その時巨大な熊がチラッと姿を現してやがて消え失せた。この熊は,熊野の山に住む荒々しい霊力を持った神であって、その毒気に触れたカムヤマトイワレヒコトノ命はあっと言う間に正気を失ってしまい,部下の軍隊も皆々正気を失い死んだように寝込んでしまった。

 この危急の際に,熊野の高倉下(タカクラジ)と言う名の者が、一振りの剣をもって天神(あまつかみ)の御子の寝ているところへ参り、これを献上した。御子はこの霊剣の功徳で、さっそく正気に還り「ああ、長い間寝むったことだ。」こう呟いた。

 そしてタカクラジのもたらした剣を受け取ったが、かの熊野山にすむ荒々しいすさまじい神は、まだその剣を揮わないうちに、もうしぜんと切り倒されてしまった。また、正気を失って寝ていた軍隊の面々も、皆眠りから覚めて起きあがった。( 『古事記』 現代語訳 福永武彦、河出書房新社・  このあとにこの霊剣が遣わされた由緒や道案内役を務める三本足の八咫烏(やたがらす)のことが出てくるが、以下略します)

以上記載したように紀国の現和歌山市には町名は現存しないが和歌山県庁のすぐ北隣に雄湊公園および雄湊小学校があります。これは古事記に言う男之水門を指した地名と考えられ、また
神武天皇の兄五瀬命を葬り祀った「竃山神社」(和歌山市和田438・JR和歌山駅の南東約2.5km)がある。神社の詳しい内容は下記にアクセスしてご覧下さい。

・「竃山神社」 http://www.genbu.net/data/kii/kamayama_title.htm

(ご参考)過去の「熊野」に関するブログ記事掲載時期
・2010/12/・15.17.20.22日のブログもご参考にして下さい

     ◆                                  ◆
●神武東征の足跡をたどる宮崎市の観光キャンペーン来新さる!


熊野の山並み

宮崎県観光関係者
 宮崎県宮崎市や同市観光協会、観光関係者らの一行16人が14日、熊野三山を訪問した。
今年が古事記編さん(和銅5(712)年)(1300年の節目にあたり、初代天皇の神武天皇が高千穂を立ち“東征”した足跡をたどりながら誘客を呼び掛けるキャンペーンの一環。新宮市では熊野速玉大社と神倉神社に参拝した。


熊野速玉大社


神倉神社とご神体の「ごとひき岩」
 古事記によるとのちに神武天皇となるカムヤマトイワレヒコが東征時、現在の大阪から奈良方面に進出しようとして一度撃退され、熊野から大和に日を背負って攻め込み、橿原宮で即位したとされる。新宮には三輪崎に「神武東征上陸地」があり、一行を大和に導いた八咫烏(やたがらす)は熊野の神鳥とされる。また、日本書紀では一行が天の磐盾(いわたて)に登ったとの記載があり、神倉山がその伝承地となっている。



天の磐盾といわれる神倉山と神倉神社

神倉山への急峻な石段

三本足の八咫烏

神武熊野上陸の地に建立の記念碑

熊野速玉大社護符(八咫烏が描かれている)

 キャンペーンは「神話発祥の地」の発信と、地元で「神武さま」として親しまれる神武天皇、10月末に行われる宮崎神宮大祭をPRするもので、同協会の萩野政広事務局長、宮崎サンシャインレディの長友祐希さん(21)らが、古代装束に身を包み参加した。

宮崎神宮
 
 
 
キャンペーン隊一同は宮崎神宮に参拝した後、神武東征のルートを
辿り、「神話発祥の地」と「神武さま」大祭をPRしながら来和した。

「神武さま」といわれる「宮崎神宮」大祭ポスター
このうち、熊野速玉大社(上野顯宮司)では新宮市観光協会や神社関係者の出迎えを受けた後、正式参拝を行い、神(かん)なぎの舞を見物。境内では観光客らにチラシを配るなどして、神話でのつながりや宮崎の良さをPRしていた。

 上野宮司は、古事記の記載について「熊野に来て倒れ、回復した後、日のみことなった。即位には熊野の神々の加護が必要だった」との解釈を紹介。萩野事務局長は「熊野に来て元気をもらった。島根県なども神話にちなんだキャンペーンを行っている。宮崎への誘客はもちろん、お互いの観光活性化につながればいい」と話していた。

 宮崎市観光協会は2020年の日本書紀編さん(養老4(720)年)1300年記念の年まで、足かけ9年間にわたって関連行事に取り組むことにしている。

このように神武天皇をお互いの共通項目として宮崎と和歌山が結ばれることは、観光立県としても大歓迎する相互交流で、この交流の輪が大きく拡がり交流の機会が増加することに期待したい。
何と言っても人の相互交流はお互いに相手の県をPRする絶好の機会を作ってくれるのだから、大歓迎である。また、そうあって欲しいものだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿