ブログ アーカイブ

2012年3月26日月曜日

和歌浦・忘却の秘話蘇る「南方熊楠と孫文交流の地」に案内板設置

 「和歌浦」は2010.8.5に國の名勝に指定され、それを受けてこのブログでも地元ニュース和歌山のお許しを得て同社シリーズ掲載の「和歌浦の風景」を転載させて頂いたが、名勝指定以来官民とも景観保存や街おこし活動が活性化し、聖武天皇行幸や万葉集に詠まれたいにしえの地を保存してゆこうとの活動が活発になってきている。

・「和歌浦が國の名勝」に指定される 2010.8.5
  http://o-shige3.blogspot.jp/2010/08/9.html

     ◇                               ◇                                                                       そうしたところに、いまから111年前地元和歌山出身の南方熊楠が辛亥革命で中華民国を誕生させた孫文と和歌浦の「あしべ屋」(現存せず)で旧交を温めた跡地に案内板が掲示されることになり、去る25日祝賀の記念行事が開催された。和歌浦の歴史に新しい1ページが加わる。

・和歌浦の南方熊楠・孫文 交流の跡地に「案内板」が掲げられる!
  和歌山市和歌浦南3丁目の「和歌の浦アート・キューブ」で25日、地元和歌山市出身で粘菌の研究等や環境保全等で幅広い博識の博物学者として世界的に知られる南方熊楠と「中国革命の父」と呼ばれる孫文が和歌浦で再会したことを示す案内板が設置されたことを祝い、記念集会が開かれた。同館には中国駐大阪総領事館の職員や地元住民など約200人が出席した。

南方熊楠
孫文
和歌浦「あしべ屋」(現存しない)
 案内板は和歌山市和歌浦中3丁目の玉津島神社近くにあり、日中友好協会和歌山県連(橋爪利次会長)などの要望に応えて県が設置したもの。熊楠と孫文が111年前、この場所にあった料理旅館「あしべ屋」でロンドン留学時代以来の再会を果たしたことなどが当時の写真とともに紹介されている。熊楠と孫文は1897年3月にロンドンで知り合い、アジア諸国の自立などの理想で意気投合したという。田辺市中屋敷町の「南方熊楠顕彰館」には、孫文が熊楠に向けて「私の心を理解してくれる大切な友人」という意味のメッセージを書いたサイン帳が保管されている。1901(明治34)年2月14~15日、日本に亡命中だった孫文と熊楠は和歌浦の料理旅館「あしべ屋」で再会し、写真館で記念撮影をして別れたが、それが2人の最後の出会いとなった。

 1911(明治44)年8月、夏目漱石が和歌浦を訪れかつての望海楼に宿を取り、その隣に設置されたばかりの東洋一のエレベーターに昇降した感想を小説『行人』に記すなど、また翌日は県議会議事堂で講演会を行うなどしたことはひろく知られているが、世界的に名高いこの二人が和歌浦で旧交を温めたことはほとんど知られていないか、忘れ去られていた。
この度の案内板設置により和歌浦にこんな歴史的な一コマがあったことを示すことになり、地元和歌浦の景観保存にも一役買うことになるだろう。 

熊楠と孫文が旧交を温めた元「あしべ屋」跡に設置された案内板

写真
孫文が熊楠のサイン帳に書いたメッセージ。「海外逢知音」「1897年6月27日」
などと記されている=田辺市・南方熊楠顕彰館提供

写真
和歌山を訪れた孫文(前列中央)を囲んで記念撮影する南方熊楠(後列左)ら
田辺市・南方熊楠顕彰館提供
<><><><><><><>                      -------------------------------------------------------------------
「孫文 そん ぶん / Sun Wan 1866-1925」(南方熊楠顕彰館)
孫中山、名は文、字逸仙、日本亡命中は中山樵(しょう)を名乗っていた。広東省香山(中山)県の農家に生まれ、広州や香港に出て医学を学んだが、のち、清朝打倒の革命運動に投じた。
一八九五年、第一次共和革命の失敗で日本・ハワイ・アメリカを経て一八九六年ロンドンに旧知の英人牧師康徳理を頼って滞在した。熊楠が初めて孫文と出会うのは一八九七年三月十六日、大英博物館の東洋図書部長サー・ダグラスの部屋で、それ以来、孫文がロンドンを去る六月三十日まで、毎日のように二人は会い、食事や見学を共にし、議論を闘わせている。別れに臨んで孫文が熊楠の差し出した日記帳の一ページにしたためたのは、「海外逢知音」の言葉である。孫文にとって熊楠はまさに海外で得たもっともよき理解者、共鳴者であったにちがいない。 孫文がロンドンを離れて三年後、熊楠もまたロンドンを発って帰国する。和歌山の弟宅に落ち着いた熊楠は、福本日南に孫文の動静を問い合せたところ、横浜旧居留地百二十一番に中山樵の名で潜伏していることを知った。明治三十三(一九〇〇)年十二月九日、熊楠は孫文に書簡を送り、折返し孫文からの返書があり、数度の書信の往復ののち、翌春二月十三日、孫文は和歌山に熊楠を訪ねた。この来訪の目的を熊楠は「孫は当時甚だ日本で失意地にあり(中村弥六、福本日南等がへんな事を企て、孫の名で不埒な事を行いしなり)。小生東京へ猪突して交渉でもしくるるものと思い面会に来りしらしく、所詮生(いき)るか死するかのさし迫った場合にありしなり。」(上松蓊宛書簡、昭和十五年三月五日付)と述べている。

この後、一九一一(明治四十四)年いわゆる辛亥革命で臨時大統領に推され、中華民国を発足させたが間もなく袁世凱に政権を譲った。孫文が臨時大統領になったのを機会に『和歌山新報』が熊楠兄弟と孫文の記念写真を掲載した。その記事を見て熊楠の訂正談が『牟婁新報』(明治四十四年十一月九日付)に出ている。
それによると熊楠は孫文との記念写真に触れて、逸仙今一人の革命党員を随へ、中山樵と仮名して、龍動(ロンドン)一別以来の旧誼(きゅうぎ)を述べんため、横浜より和歌山え予を来訪され、大に芦辺屋で飲み、翌正午出立の際、三木橋西詰浅井写真舗で撮ったものぢや。逸仙龍動出発の際、見送り人は予とアイルランド人マルコ-ン二人で、マルコ-ンは現に革命軍に加はり居る。常楠方に二、三日逗留とあるが、実は富士源へ一夜泊まったきりぢや。最も彼写真でも明瞭なる通り、予その時三十五歳、孫は三十四歳で、予は中々美男子だった。嘘と思はば、例のお幾、栄枝等に聞いてみるがよい。又熊楠が言たとして、孫は大法螺(おおぼら)吹きで、口計(ばか)りの者と思ひ居たが今度の革命軍で男を挙げたとあるが、是(あ)れも誤聞で、熊楠が頃日或人に語りしは、伍子胥、楚の難を遁(のが)れ、君父の讐(あだ)を返さんとて、呉君に謁見せしも説行はれず、時可ならざるを見て、野に耕す事七年、一朝闔閭(こうりよ)のの即位に遇て、忽ち龍驤(りょうじょう)したこと其通り、大事を成さんとする者は、他人は素より、同志からも、丸で見落とさるるほど人の目を暗まさねばならぬ。逸仙如きも又大石内蔵之助抔(など)も到底物に成らぬと世論定まる迄、落ち着き居た所がエライ。だから予抔も一層酒を飲み、ぶらぶらする積もりぢやと云ふのぢや。(『牟婁新報』明治四十四年十一月九日付)とある。

一九一三(大正二)年孫文は亡命のため来日、大阪その他で講演会をもったが、その時も熊楠との会見を希望したようで、「孫逸仙、小生に会見の由大阪毎日其他に見え和歌山辺大騒ぎなり」。しかし「予は少し快方なれど、今度孫逸仙の来訪をさえ好まぬほどにて身心甚だ不健康なり」というように、熊楠側に支障があって実現しなかった。 一九二五(大正十四)年、孫文は「革命尚未成功、同志仍須努力(革命なおいまだ成功せず、同士よってすべからく努力すべし)」の言葉を遺して没。熊楠はこのすぐれた友人の葬儀の模様を伝える新聞を筺底(きょうてい)に収めていた。 〔中瀬 喜陽〕

3 件のコメント:

  1. モノノフでござる。
    孫文殿にはさほど興味はござりませぬのじゃが、
    今は無き「あしべ屋」には興味深々にござりまする!
    それがしの母親が申すには昔その辺りに旅館がござって、
    往時にはダンスホールまでござったと申しておりまする^^;
    もしや母の記憶違いでござりましょうかのう?

    返信削除
  2. モノノフ殿
    徳川時代、明治、大正初めまでは(旧)和歌浦が観光の中心でした。
    大正時代に新和歌浦が開発されてメーンはそちらに移りましたが
    いにしえの和歌浦は片男波を含む東照宮・天満宮より東側です。
    明治、大正時代にはいまの玉津島神社、塩竃神社や観海閣のある
    小嶋の辺りに旅館、茶店等が数軒あったようです。
    そのうち「あしべ屋」「望海楼」が有名で明治44年夏目漱石が
    来和し和歌浦望海楼に宿泊、翌日市内で講演した記録はひろく
    知られています。また当時望海楼の直ぐ西に東洋で最初のエレベ
    ーターがあり、漱石もこれに昇降したそうで、小説「行人」に
    記載されています。
    最近ニュース和歌山が同紙に連載していた「和歌浦の風景」ⅠⅡ
    をまとめて一冊の本にして発刊しました。
    これを見ると和歌浦の今昔がよく分かると思います。
    近くのオークワかWAYで発売しているようです。以下案内します。

    返信削除
  3. モノノフ殿2(以下案内でござる)
    ●和歌山の風景や習俗を紹介する江戸時代の地誌『紀伊国名所図会』。精密なスケッチに彩色し、描かれた内容について解説を加えた「カラーでよむ『紀伊国名所図会』」の第2弾『和歌浦の風景』を、ニュース和歌山が発行しています。
    ●美しく見やすい図会と解説、当時と現代の地図、さらに描かれた地点の現代の写真から、一目で和歌浦の「昔」と「今」が分かります。
    ●和歌祭の風景や紀三井寺参詣曼荼羅を挿入し、当時の人の動きが生き生きと伝わってきます。
    ●解説は和歌山市文化振興課の額田雅裕副課長、彩色はわかやま絵本の会の芝田浩子世話人代表。史実に基づいて、町の成り立ちや習俗を分かりやすく伝えるとともに、当時の色合いを再現しています。
    ●横長サイズで、絵が大きく、色の細やかな表現まで味わっていただけます。
    ●取扱:帯伊書店、宮脇書店ロイネット店・和歌山店、上野山書店、宇治書店、TSUTAYA WAYガーデンパーク店・和歌山高松店・オークワ本社店・和歌山ミオ店・岩出店・海南店・打田店・ミレニアシティ岩出店、松原書店、松木書店、太田書店、福岡書店、紀州屋、荒尾成文堂、林書店、県立博物館、和歌山市観光協会、和歌山大学生協。
    ●ニュース和歌山皆さんコーナー窓口(月曜~金曜午前9時半~午後4時)
    ●A4版オールカラー64ページ、1050円。

    返信削除