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2011年9月22日木曜日

「和歌浦の風景」その5.養珠寺と妙見堂

(この記事はニュース和歌山・09.10.31「和歌浦の風景」より)
 上の絵は、和歌浦の妙見山(標高32メートル)、 養珠寺付近をえがいた約200年前の風景です。
養珠寺は承応3年(1654)に初代藩主頼宣が生母お万の方の霊牌所として建立した日蓮宗の寺院です。開基には身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ、山梨県)の日護上人を請じました。境内南西の山上には万治3年(1660)に妙見堂が創建されました。 妙見とは北極星を神格化したもので、日蓮が信仰に取り入れたことから、お寺の守護神として用いられました。

 山麓の集落は津屋で、手前の道は現在の国道42号にあたります。その手前は田んぼのようにみえますが、「塩浜」と記され、津屋川沿いの土手は干潟を囲んで塩田にした堤防だったのです。

 絵図では、塩田を利用して約3度の海水を約17度に濃縮する砂寄せが行われ、そこから塩水を桶に入れて棒で担ぎ集落まで運んでいます。釜屋からは煙があがり、薪をたいて釜で煮詰める当時の製塩の工程がよくわかります。
しかし、塩は国の専売事業となり、効率が悪かった県下の塩田は、明治43年(1910)までにすべて廃止されました。( 和歌山市教育委員会 額田雅裕)
(以下ニュース和歌山より)
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養珠寺


養珠寺本堂
(養珠寺縁起)
 正保4年(1647)紀州藩祖徳川頼宣が寺庵を建立し、京都鳴滝より、中正院日護を招き、住持させた事に始まる。
日護は、頼宣生母で篤信の養珠婦人(徳川家康の側室。紀伊国藩主徳川頼宣・水戸藩主徳川頼房の母・  お万の方)の晩年の指導者で、ここに住まいしながら、妹背山を開き、徳川家康の冥福を祈ると共に、国内の滅悪生善、抜苦与楽を発願して題目石を藏する事業を指導督励した。
 
 

 承応2年(1653)に養珠婦人が逝去すると、頼宣は、日護の寺庵に宝塔堂舎を建立し、母の院号から、妹背山養珠寺と号し200石を寄進、養珠婦人の遺骨を分収、位牌を安置して堂内に御霊屋を造営し菩提所とした。さらに頼宣は、宝塔堂舎を世々慎守すべき事を記して養珠寺に納めている。「宝塔堂舎を建立」の宝塔とは、妹背山の多宝塔の事である。

境内には本堂、釈迦堂、妙見堂、辨天堂(妹背山より遷座)書院、庫裏が建つ。尚、裏の妙見山は戦国武将・雑賀孫一の城跡である。また、日演と縁のあった井原西鶴も養珠寺に寄宿していた事がある。
和歌山バス和歌浦下車すぐ、南消防署北隣にある。
(つづく)

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