ブログ アーカイブ

2010年12月24日金曜日

24日・熊野古道・切目王子の遺された伝承

 京の都から熊野本宮大社まで九十九王子と云われる王子社があります。九十九は実際の数ではなく数多くという意味です。百近くあります。

 熊野への道中王子でで休憩したり、中には五体王子と呼ばれる大きな王子社もありました。 この五体王子社では催物、歌会を催したり、宿泊場所にも充てられました。法皇などのご一行の熊野詣にときには、約千人前後の付き人が従ったと云われます。
 この歌会で詠まれた歌は「熊野懐紙」として遺され国宝に指定されています。

 五体王子は紀州では、「藤白」「切目(切部)」「稲葉根「滝尻」と「発心門」の5つの王子を指します。

このうち、今回採り上げるのは「切目(切部)王子」です。場所は紀州に入って熊野本宮までの半ばで、海岸沿いの場所にあります。この王子には有名な伝承があります。

 その一つは、平清盛が熊野詣の途次、「切目(切部)王子」まで来たとき、都で異変が惹起したことを知り、都へ駆け戻ったお話です。もう一つは元弘の変(1331)に熊野落ちの途次、大塔宮護良親王が夢で熊野権現のお告げで熊野にではなく十津川に落ち行く先を変更したのが、切目王子で見た夢の神の御宣託なのです。

 今回はまず、平清盛がここ切目王子から熊野詣でに後ろ髪を引かれる想いをしながら都へ駆け戻ったお話です。
 時は、平治元年(1159)十二月四日、清盛は嫡男重盛以下一族郎党50名ばかりを引き連れて、熊野詣でに出かけた。

 その留守を狙って、藤原信頼・源義朝らがクーデターを起こし、十二月九日三条殿へ夜討をかけた。「平治の乱」である。変を報せる六波羅の早馬は、切部(切目)の宿で清盛の一行に追いついた。

 都に大事件が起こったというのに清盛は、「ここまで来て、参詣しないで引き返すのも心残り」などと迷っている。

 重盛(清盛の嫡子)が、事は一刻を争う。何をおいても帰洛して逆臣らを討つべきだと説いたので、やっとその気になった。さて、はたと困ったのは、熊野詣でだから、一同が全く武装をしていないことだ、すると、筑後守家貞が、重そうな長櫃五〇合を運び出させた。
 開けてみると、鎧・弓矢が50人分入っている。万一の場合を考えた家貞が、ひそかに用意して持ち歩かせていたのだ。

 熊野別当湛増から20騎。湯浅宗重(紀州湯浅の武家)の30騎が加わって総勢100余騎が「啓礼熊野権現、今度の合戦ことゆえなくうちかたせ給へ」と祈って、熊野路をひた走りに駆けた。

 阿倍野の辺りに義朝の長男義平が兵を出して待ち構えているという噂があったが、それは伊勢の家人たち300余騎だった。勢いづいた清盛の一行は、まっしぐらに都に入り、稲荷神社に参拝して、めいめい杉の枝を折って鎧の袖にさし、六波羅へ帰還した。

 この乱をみごとに勝ち抜いた清盛は、京都から源氏の勢力を一掃して、平氏の黄金時代を築き上げた。清盛は父忠盛の故郷熊野に、恩賞を送ったのは、言うまでもない。

※(紀州・湯浅氏の由緒)
 ここに登場する湯浅氏は藤原秀郷の後裔といい、紀伊国在田郡湯浅庄から発祥した武士団であった。湯浅氏が歴史の舞台にあらわれるのは、紀伊権守宗重のときである。平治元年(1159)、熊野参詣の途中にあった平清盛のもとに源義朝挙兵の報が伝えられた。いわゆる「平治の乱」で、清盛はただちに京に引き返すと上皇・天皇を救出し義朝軍を打ち破った。このとき、清盛の帰洛に活躍したのが湯浅宗重であった。
 かくして、平家の有力家人となった宗重であったが、源頼朝の挙兵により平家が滅亡すると、平重盛の子忠房を庇護して湯浅城に立て籠り源氏方と戦った。その後、文覚上人の仲介で源頼朝に降り、本領を安堵され鎌倉御家人に列した。以後、湯浅一族は在田郷一帯から、さらに紀ノ川流域にまで所領を拡大し、有力御家人として栄え湯浅党と呼ばれた。

◎「切目(切部)王子」
 熊野九十九王子社のうち、五体王子のひとつに数えられた別格の神社。現在も檜皮葺春日造の社殿を中心に古風なたたずまいを遺しています。社前には幹周り4m、高さ16mにおよぶ県下最大級のホルトノキがあり、この神社の長い歴史を物語っています。
 切目王子は平氏と源氏による二度目の争乱、平治の乱を語るに欠かせない重要な舞台です。

 12月13日、切目王子付近で戦乱の急報を知った清盛は切目王子で評定(会議)を開き、熊野への参詣を中止して急ぎ、都に取って返し、12月17日には和泉国、紀伊国など西国の兵を本拠の六波羅に集結させてクーデターの鎮圧に乗り出し、源氏の勢力を一掃することに成功した。

 源平の騒乱の前後には、参詣途中の皇族貴族による経供養や里神楽、歌会が境内で催されたようです。
 切目王子のもう一つの伝承は、元弘の乱(1331)で熊野落ちの途次、切目王子で熊野権現から夢のお告げを受けた大塔宮護良親王が、十津川へと落ちのびたという故事が「太平記」に記されています。

 この護良親王の話は次に譲るとして、平清盛が熊野に如何にご執心だったかの話を続けましょう。
    ---------------------------------
◆ 平家物語1『平清盛の熊野詣』

 『平家物語』にまず最初に熊野が登場するのは、巻一の「鱸(すずき)の事」。

 そもそも平家がこのように繁栄したのは、ひとえに熊野権現の御利益であると噂された。それは昔、こんなことがあったためだ。
 清盛がまだ安芸守であったとき、伊勢国安濃の津(伊勢平氏の本拠地)から舟を使って熊野へ参詣したときに、大きな鱸(すずき)が舟の中に踊りこんできた。
 先達の修験者が「昔、周の武王の船に白魚は躍りこんだという。おそらく、これは熊野権現の御利益と思われます。召し上がりなさい」と申したので、清盛は十戒を守って精進潔斎の熊野参詣の道中であるけれど、自ら調理して、身を食べ、家子(いえのこ。一門の庶流で本家の家来になっている人々)、侍(血縁関係のない家来)たちにも食べさせた。

 そのご利益があったためか、以後、吉事のみが続いて、清盛自身は太政大臣にまでなり、子孫の士官の道も、龍が雲に上るよりすみやかであった。九代の前例を越えたのは見事である。 清盛は20歳で肥後守となりましたが、それは父忠盛(ただもり)の熊野本宮造営の賞の譲りによるものであった。
 熊野にはそのような縁もあり、清盛はたびたび熊野を参詣している。
 
 平治元年(1159)には、子の重盛らを伴って熊野詣をしていたその隙をついて源義朝らが挙兵。清盛らは急きょ、京に引き返し、義朝らを打ち倒しましました。この「平治の乱」の勝利により平家は圧倒的な地位を得ます。

 その翌年には後白河上皇の初めての熊野御幸に従っています。そのときのことが『梁塵秘抄口伝集』に描かれて、清盛の名も記されています。
 この『平家物語』の「鱸の事」に語られているお話は、それらより以前に行った熊野参詣の途上での出来事です。
 熊野詣は精進潔斎の道。行きも帰りも、魚や肉、ネギやニラなどは口にすることはできませんでした。
 清盛一行も津を出てから精進潔斎を守ってきたはずです。それにもかかわらず、鱸を食すことを先達の修験者が勧めます。

 おそらく、これは、清盛が 熊野三党(熊野の有力者、宇井・鈴木・榎本の三氏)の力、熊野の力を手に入れたということを示しているのだと思われます(魚の鱸=鈴木に通じる?)。
 それにしても、平家一門の繁栄は凄まじいものでした。 平家は、清盛の祖父正盛(まさもり)の代まで諸国の受領にすぎず、中央の政界では何の力ももっていませんでしたが、清盛の父忠盛が武士として初めて宮中への昇殿を許され、平家繁栄の足掛かりを築きました。

 父忠盛の死により家督を継いだ長子清盛(1118~1181)は、当初、安芸守でしたが、後白河上皇に重用され、保元の乱における功により播磨守に移り、太宰大弐になり、さらに平治の乱を鎮圧した功により正三位と昇進。宰相、衛府督、検非違使別当、中納言となり、従二位を叙され、大納言へと出世街道を駆け上がります。 その間、清盛の妻の妹滋子が後白河院の後宮に入って、憲仁親王(高倉天皇)を生み、親王が皇太子になってまもなく、1167年、清盛は50歳で従一位太政大臣になりました。武家出身でありながら、全官職中最高位で「天皇の師範」と規定される太政大臣にまで清盛は登りつめたのです。 清盛は3ヶ月で太政大臣を退き、翌1168年、病を理由に出家。病はたちどころに癒え、出家後も平家一門の繁栄は止まりません。

 嫡男重盛(しげもり)は内大臣左大将、次男宗盛(むねもり)は中納言右大将、三男知盛(とももり)は三位の中将、嫡孫維盛(これもり)は四位の少将。一門の公卿は全部で16人。殿上人は30余人。諸国の受領、衛府の役人、諸官など都合60余人に及び、平家の知行国は全66カ国中30余国を数えました。
 また娘徳子は高倉天皇の后となり、言仁親王(安徳天皇)を生みます。ここに平家一門の繁栄は絶頂を極めました。「平家にあらずんば人にあらず」と、全盛を誇ったのですが、やがて『平家物語』の冒頭にある有名な”祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕はす。奢れる者久しからず、ただ春の世の夢の如し。猛き人も遂には滅びぬ。偏に風の前の塵に同じ。”と云われるように源氏にとって替わられたのです。

 つぎは、時代が下りますが同じ切目の王子で熊野権現のお告げにより熊野落ち途次の大塔宮護良親王が熊野から落ち行く先を十津川に替え難行苦行のすえ、辿りついたお話をし、そのあと、源平合戦時「平家」か「源氏」に味方するかで分かれた熊野別当家の話をします。

4 件のコメント:

  1. 王子社とはなんだろう?と疑問でした。熊野権現さまのお子様、のお社、ということなのでしょうか?熊野は歴史の節目に度々登場しますね。

    返信削除
  2. 玲小姐さん
    仰る通り熊野権現の子神を祭った祠のような社で京都を
    経ち熊野本宮まで九十九王子社があるといわれてました。
    九十九は数多くという意味にとって頂ければとおもいます
    が、実際に百近くあったようです。中には規模が大きな
    王子があり、これを五体王子と呼び催物・歌会・宿泊等が
    されたようです。王子社は小さな祠ですが、休息場所兼
    参拝して道中を旅したようです。平安朝に法皇が参詣され
    るとお伴を含め約千人規模の道中だったようで「蟻の熊野
    詣」と云われるほど賑わいだったようです。
    県や古道が通る市町村は世界遺産登録を機に観光の環境
    整備に熱を入れ出しています。

    返信削除
  3. こんばんは♪
    遅ればせ、ですが、おまねきにあずかり、参上いたしました。
    熊野は知れば知るほど面白いですね。記紀神話からはみ出たお話がたくさん残っていそうですね。
    「言語波動説」というのが言語学にあるそうですが、神話学とでもいうべき学問があれば、古い昔の史実(それは大和朝廷に征服された異族の歴史)は、地方にこそ残っているのかもしれません。
    科学的に研究された古代史を持たないわれわれの不幸を補って余りある芳醇な歴史世界が存在し、その真実が説きあ化されることを望みます。少なくとも、宮内庁は、その所管の陵墓の全面公開に踏み切るべきと思います。
    「さかなクン」を褒めることができる当主がいるのだから、国民に真実を告げる基礎研究に資する行為は可能ではないでしょうか。

    返信削除
  4. EYASUKOさん
    ようこそおいで頂きました。わたしは古代史の分からない侭で泥々した謎解きが面白くて、いろんな資料を漁りました。
    なかでも梅原猛氏の著作は彼独特の視点から多くの歴史学者
    には受け入れないですが、神とは「怨霊を祀ること」として
    法隆寺、出雲大社、北野天満宮、崇道神社等々をそう位置づけしています。
    また、「古田史学」の古代へのアプローチも興味があります。梅原氏の著書はクドイほどこれでもか的なところがありますが、わたしが好んで読むジャンルです。

    ところで、皇室に繋がる陵墓の発掘、エジプトのピラミッド
    同様の扱いが許されてもよいのではと思います。
    これが発掘できればわが国の古代史の謎が相当解明されるのではと考えます。
    例の皇国史観により皇室を余りにも神格化しすぎでした。
    天皇=現人神という教育を小学生時代に受け戦後は一変しましたので、何が真実か、自分で日本史、世界史を勉強しなおしました。
    今上天皇は自分からは言い出さないでしょうが、おそらく求めれば許されると思います。
    半藤一利氏の「昭和史」なんか興味ありました。
    戦前、戦中は特高警察で不敬罪、思想犯でぶち込まれた学者
    を知ってます。天皇機関説を唱えた美濃部達吉氏なんかもお
    気の毒でした。京大の教授方にも大勢おられました。

    返信削除