ブログ アーカイブ

2010年12月22日水曜日

22日・「熊野」(その4)神武天皇(即以前)の熊野上陸

これから書く即位前の神武天皇と「熊野」の関係について「古事紀」「日本書紀」に登場するが、両書はその記載内容に相違がある。ここでは主に「日本書紀」によって話を進めたい。




「神武天皇の生涯」(一部分)

 以下は主に『日本書紀』に拠った神武天皇の事績である。 内容が神話的であり、神武天皇の実在も含めて現在の歴史学では、そのままの史実であるとは考えられていない。 『古事記』にも神武天皇の物語があり、大略は同じだが遠征の経路などが若干異なる。『日本書紀』『古事記』の神武天皇の記述は東征が大部分を占めている。

・ 東征の開始

 神武天皇は即位前は神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)といい、彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の四男(または三男)である。生まれながらにして明達にして、強い意志を持っていた。15歳のときに皇太子となり、長じて吾平津姫(あひらつひめ)を妃とし、息子の手研耳命(たぎしみみのみこと)を得た。

 『日本書紀』によると、甲寅の歳、45歳のとき日向国の地、高千穂宮にあった磐余彦は、兄弟や皇子を集めて「天孫降臨以来、一百七十九萬二千四百七十餘歲が経ったが、未だに西辺にあり、全土を王化していない。東に美しい土地があるという、青い山が四周にあり、その地には天から饒速日(二ギハヤヒ)命が下っているという。そこは六合の中なれば、大業を広げて、天下を治めるにふさわしい土地であろう。よって、この地を都とすべきだ」と宣言した。諸皇子はみなこれに賛成した。

・ 長髄彦との戦いと苦難

 太歳甲寅年の10月5日、磐余彦は兄の五瀬命らと船で東征に出て筑紫国宇佐に至り、宇佐津彦、宇佐津姫(現・宇佐神宮)の宮に招かれて、姫を侍臣の天種子命と娶せた。 筑紫国崗之水門を経て、12月に安芸国埃宮に居る。乙卯年3月に吉備国に入り、高島宮の行宮をつくって3年又は8年滞在して船と兵糧を蓄えた。(中略)
 戊午年の2月、浪速国に至る。3月、河内国に入って、4月に龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めず、東に軍を向けて生駒山を経て中州へ入ろうとした。

 この地を支配する長髄彦(ナガスネヒコ)が軍衆を集めて孔舎衛(クサエ)坂で戦いになった。戦いに利なく、五瀬命が流れ矢を受けて負傷した。
 磐余彦は日の神の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟り兵を返した。草香津まで退き、盾を並べて雄叫びをあげて士気を鼓舞した。この地を盾津と名付けた。

 5月、磐余彦は船を出し、山城水門で五瀬命の矢傷が重くなり、紀伊国竃山で死去し、その地に葬った(現・和歌山市竃山)。名草戸畔(ナグサトべ)という女賊を誅して、熊野の狭野(現・和歌山県新宮市佐野)を越えて熊野神邑に至り「天磐盾(あまのいわだて)」に登り、再び船を出すが暴風雨に遭った。

 陸でも海でも進軍が阻まれることを憤慨した兄の稲飯命(イナヒノミコト)と三毛入野命(ミケイリノノミコト)が入水し荒海を鎮めた。

 磐余彦は息子の手研耳(タギシミミ)命とともに熊野の荒坂津に進み丹敷戸畔(二シキトべ)女賊を誅したが、土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。

・熊野上陸と八咫烏の道案内と勝利

 東征がはかばかしくないことを憂えた天照大御神(アマテラスオオミカミ)は武甕槌神(タケミカヅチノカミ)と相談して、霊剣(布都御魂)を熊野の住民の高倉下(タカクラジ)に授け、高倉下はこの剣を磐余彦に献上した。

 剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開した。だが、山路険絶にして苦難を極めた。そこで、天照大御神は「八咫烏(ヤタガラス)」を送り教導となした。八咫烏に案内されて、莵田(ウダ・現・奈良県宇陀市大宇陀区)の地に入った。8月、莵田の地を支配する兄猾(エウカシ)と弟猾(オトウカシ)を呼んだ。兄猾は来なかったが、弟猾は参上し、兄が磐余彦を暗殺しようとする姦計を告げた。

 磐余彦は道臣命を送ってこれを討たせた。磐余彦は軽兵を率いて吉野の地を巡り、住人達はみな従った。(後略)



 8月、莵田の地を支配する兄猾(エウカシ)と弟猾(オトウカシ)を呼んだ。兄猾は来なかったが、弟猾は参上し、兄が磐余彦を暗殺しようとする姦計を告げた。
 磐余彦は道臣命を送ってこれを討たせた。磐余彦は軽兵を率いて吉野の地を巡り、住人達はみな従った。(後略)

「八咫烏(やたがらす・3本脚のカラス)」
 

※「八咫烏」は神の使いとされ、熊野三山では崇められている。また、日本サッカー協会のシンボルマークであり、三本脚のカラスである。古来中国では、3は太陽を意味し、縁起がいい数字とされてきた。



◎「神倉神社」と「記紀神話」 新宮市街の西の小高い山の上に、通称“ゴトビキ岩”と言われる巨石をご神体として崇める神倉神社がある。 ゴトビキとはこの地方の方言で、ヒキガエルのことですが、巨大な磐の姿はヒキガエルが蹲る姿に見えなくもありません。
 熊野の地は自然崇拝が顕著で、那智の滝が熊野那智大社のご神体といわれるように、神倉神社はゴトビキ岩という巨岩をご神体としていることから、磐座信仰から発した神社と考えられます。
 
 熊野といえば熊野三山と言われる、「本宮」「速玉」「那智」が圧倒的な知名度ですが、これら熊野の神々が最初に天上から降り立った“天磐盾(あまのいわだて)”と言うのが実はこの神倉山の磐山であったと伝えられ、その意味で熊野信仰の根本とされています。また、熊野速玉大社の「本宮」「奥の院」ともいわれえることから、発祥は速玉より早かったと推測されています。いまに神倉山の麓には「磐盾」という地名が残っています。

・神倉神社ふもと












 












ふもとからは、急峻な斜面に、源頼朝が寄進したと言う石段が築かれていますが、これが相当の急峻、特に下りは、初めての人はちょっとビビリますヨ! この石段を見下ろすと、この石段を駆け下るなんて・・・・ちょっと信じがたい!でもぜひ一度見てみたい勇壮なお祭りです。



・「御燈祭り」
 毎年2月6日夜に行われる神倉神社の例祭で、古代以来の熊野山伏の伝統をもつ。白装束に荒縄を締め、ご神火を移した松明をもって、神倉山の山頂から急な石段をかけおりる男の火祭りである。
 このまつりは火の洗礼を受けるものとして始められたもので、炎の奔流は闇に火の斑を撒いて躍動し、その壮観さは、新宮節にも唄われているとおり「お燈まつりは男のまつり山は火の滝、下り竜」そのものである。昭和39年5月、県の無形民俗文化財に指定。





・神倉神社由緒
 この神社の祭神は「天照大神」・「高倉下命(たかくらじのみこと)」であるが、高倉下命は、記紀神話の神武東征の際、夢の中で天上の神々の依頼を請けて、窮地に陥っていたイワレヒコ(後の神武天皇)に、フツノミタマと云う聖剣を届け、皇軍の危機を救った人で、熊野三党といわれる、宇井・鈴木・榎本氏の祖とされています。
 なおこのときのイワレヒコの危難について、古事記では、荒ぶる神の化身の大熊に出くわした時、その毒気に触れて全員意識を失ってしまったとあり、日本書紀では、丹敷戸畔(ニシキトベ)と云う、この土地の豪族を討った時、戸畔(部族の長の女性、巫女さんのような女性が部族を統率していた?)が神毒気(アシキイキ)を吐いて人々を萎えさせた、とされています。


 記紀における神武東征の話あたりは、ちょうど神話から歴史物語に変わってゆく境目に当たるわけですが、ひとつの事柄でも、記述のされ方は上記のようにかなり異なっています。
 まず古事記は日本語の言葉に漢字を当てはめた(いわゆる万葉仮名)に対し、日本書紀の原文は漢文で記載されています。
 ちなみに神武天皇の即位前のお名前“カムヤマトイワレビコノミコト”古事記の記述では“神倭伊波礼毘古命” 日本書紀では“神日本磐余彦命” と記されています。

 また上記のように、おはなし的な記述の多い古事記に対し、日本書紀には何年何月何日にどうしたといった記述が多くなされています。これは一般国民向けに、国の成り立ちや皇室の由来を語った古事記と、律令国家の公文書としての意味を持った日本書紀と云う解釈をしたらいいのではと思います。
 いずれにせよ、その内容や年代がすべて事実とはとうてい思えませんが、何らかの事実の上にそういった謂われあるのであって、伝説や伝承の類は何らかの根拠があって、それらが長年にわたって伝えられてきたものと、当初から一蹴することはできないと思います。近年多くの貴重な遺跡が続々と発見され、それらが記紀の記述に合致することが多くあり、上記のことを証明しています。

(つぎは、源平のころ「平清盛」が熊野参詣の途次、紀州切目王子で都に不穏な動きあるを知り、急いで都へ戻った話、源平合戦の折り、双方から味方するよう誘われた熊野別当・湛増が赤・白二羽の鶏を戦わせ、白が勝ったので源氏へ味方し、「熊野水軍」を率いて平家を壇ノ浦に追いつめた伝説、また南北朝のまえ元弘元年冬、大塔宮護良親王が熊野落ちの際、切目王子で神のお告げにより落ち行く先を十津川の替え、再起を期して暫時潜伏した伝承等々紹介予定です。)

0 件のコメント:

コメントを投稿