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2010年12月26日日曜日

26日・「切目王子」の伝承・「大塔宮熊野落事」(太平記より)の巻


 ときは元弘元年(1331)十一月終り頃、山伏姿に身を扮した一行総勢九名が一路「熊野路」を急いだ。「太平記」(卷5)に有名な「大塔宮熊野落事」である。

 「元弘の変」を惹き起した後醍醐天皇は鎌倉幕府軍に追われて、比叡山から笠置山に身を遷し、ついに囚われの御身と相成った。

 一方、大塔宮護良親王は天皇を救出すべく笠置山へと向かったが、帝が囚われの身となったので、楠正成が籠もる赤坂城へ脱出し、正成とともに闘うが多勢に無勢、奈良の般若寺に身を隠し、唐櫃(からびつ)の中に潜み、辛くも追手から逃れ、九死に一生を得て高野山を頼ったが受け入れられず、一路熊野を目指して落行くことにした。

(※「大塔宮護良親王」護良【もりよし・もりなが】略記)
・生年: 延慶1(1308)~没年: 建武2.7.23(1335)
 後醍醐天皇の皇子。母は源師親の娘親子。文保2(1318)年2月,三千院(梶井門跡)に入室したと伝える。 嘉暦1(1326)年9月、落飾して尊雲法親王と号した。  翌年天台座主に補任された。元徳1(1329)年延暦寺大講堂を修理した。天台座主への就任は,延暦寺の勢力を討幕運動に組み込むための布石であった。
 後醍醐天皇の第2次討幕運動(元弘の変)に際し,弟尊澄法親王(宗良親王)と共に八王子に布陣したが、六波羅軍との合戦に敗れた。佐藤和彦『太平記を読む』
  
 
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 このところは「太平記」に中でも名調子といわれる巻五「大塔宮熊野落事」に詳しい。さきに、「切目王子案内板」にも書かれているように一路切目の王子まで落行したのである。

 では、少々長くなるが太平記から、十津川までの落行の様子を引用してみよう。
(古文ですが、さほど読みにくくありません。高校時代を想いだし読んで下さい)

(前略)・・・角ては南都辺の御隠家暫(しばらく)も難叶(かないがた)ければ、則(すなはち)般若寺を御出在て、熊野の方へぞ落させ給ける。
 御供の衆には、光林房玄尊(こうりんぼうげんそん)・赤松律師則祐(そくいう)・木寺相摸(こでらのさがみ)・岡本三河房・武蔵房・村上彦四郎・片岡八郎・矢田彦七・平賀三郎、彼此以上九人也。
 宮を始奉て、御供の者迄も皆柿(かき)の衣に笈(おい)を掛け、頭巾(とうきん)眉半(まゆなかば)に責め、其中に年長(としちょう)ぜるを先達に作立(つくりたて)、田舎山伏の熊野参詣する体にぞ
見せたりける。 
 此君元より龍楼鳳闕(りようろうほうけつ)の内に長(ひと)とならせ給て、華軒香車(かけんこうしや)の外を出させ給はぬ御事なれば、御歩行の長途(ちょうど)は定はせ給はじと、御伴の人々兼ては心苦しく思けるに、案に相違して、いつ習はせ給ひたる御事ならねども怪しげなる単皮・脚巾(はばき)・草鞋を召て、少しも草臥たる御気色もなく、社々(やしろやしろ)の奉弊、宿々の御勤懈(おこた)らせ給はざりければ、路次(ろし)に行逢(ゆきあ)ひける道者も、勤修(ごんじゆ)を積める先達も見尤(みとがむ)る事も無りけり。
 
(紀州)由良湊(ゆらのみなと)を見渡せば、澳(おき)漕舟の梶をたへ、浦の浜ゆふ幾重とも、しらぬ浪路に鳴く千鳥、紀伊の路の遠山眇々(はるばる)と、藤代(海南市)の松に掛れる磯の浪、和歌・吹上(和歌山市)を外に見て、月に瑩(みが)ける玉津島(和歌浦)、光も今はさらでだに、長汀曲浦(ちょうていきょくほ)の旅の路、心を砕く習なるに、雨を含める孤村(こそん)の樹、夕(ゆふべ)を送る遠寺(えんじ)の鐘、切目の王子(中紀・印南町)に着き給ふ。


 其夜は叢祠(そうし)の露に御袖を片敷て、通夜(よもすがら)祈申させ給けるは、南無帰命頂礼三所権現・満山護法(まんさんのごほう)・十万の眷属(けんぞく)・八万の金剛童子、垂迹和光(すゐじやくわこう)の月明(あきら)かに分段同居(ぶんだんどうご)の闇を照さば、逆臣(げきしん)忽(たちまち)に亡びて朝廷再耀く事を令得給へ。伝承(つたへうけたまは)る、両所権現は是伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)の応作(おうさ)也。我君其苗裔(そのべうえい)として朝日(ちょうじつ)忽(たちまち)に浮雲(ふうん)の為に被隠て冥闇(めいあん)たり。豈(あに)不傷哉(や)。
 玄鑒(げんかん)今似空。神(しん)若(もし)神(しん)たらば、君盍(なんぞ)為君と、五体を地に投て一心に誠を致てぞ祈申させ給)ける。丹誠(たんぜい)無二の御勤、感応などかあらざらんと、神慮も暗(あん)に被計たり。
 
 終夜(よもすがら)の礼拝に御窮屈有ければ、御肱(おんひぢ)を曲て枕として暫(しばらく)御目睡(まどろみ)在ける御夢に、鬟(びんづら)結(ゆう)たる童子一人来(きたつ)て、「熊野三山の間は尚も人の心不和にして大儀成(なり)難し。是より十津川の方へ御渡候(わたりそうらひ)て時の至んを御待(おんまち)候へかし。両所権現より案内者に被付進て候へば御道指南(みちしるべ)可仕候。」と申すと被御覧御夢(おんゆめ)は則(すなはち)覺にけり。是権現の御告也。けりと憑敷(たのもしく)被思召ければ、未明(びめい)に御悦(よろこび)の奉弊を捧げ、頓(やが)て十津河を尋てぞ分入らせ給ける。
 
 其道の程三十余里が間には絶て人里も無りければ、或は高峯の雲に枕を峙(そばだて)て苔の筵に袖を敷、或は岩漏水に渇(かつ)を忍んで朽(くち)たる橋に肝を消す。

 山路(さんろ)本(もと)より雨無して、空翠(くうすゐ)常に衣を湿(うるほ)す。向上(かうじょう)とみあぐれば万仞(ばんじん)の青壁(せいへき)刀(つるぎ)に削り、直下とみおろせば千丈の碧潭(へきだん)藍に染めり。 数日の間)斯(かか)る嶮難(けんなん)を経させ給へば、御身も草臥(くたびれ)はてゝ流るゝ汗如水。御足は欠損(かけそん)じて草鞋(ぞうり)皆血に染れり。
 
 
 御伴の人々も皆其身鉄石にあらざれば、皆飢疲(うえつか)れてはか/\敷も歩(あゆみ)得ざりけれ共、御腰を推(おし)御腰を推(おし)御手を挽て、路の程十三日に十津河へぞ着せ給ひける。
 宮をばとある辻堂の内に奉置て、御供の人々は在家(ざいけ)に行(ゆい)て、熊野参詣の(山伏共道に迷て来れる由を云ければ、在家の者共)哀(あはれみ)を垂て、粟の飯(いひ)橡(とち)の粥など取出)して其飢を相助(あひたす)く。
 宮にも此等を進(まいら)せて二三日は過けり。角ては始終如何(いかが)可在とも覚へざりければ、光林房玄尊(げんそん)、とある在家の是ぞさもある人の家なるらんと覚しき所に行(ゆい)て、童部(わらんべ)の出たるに家主(あるじ)の名を問へば、「是は竹原八郎入道殿の甥に、戸野(とのの)兵衛殿と申人の許にて候。」と云ければ、さては是こそ、弓矢取てさる者と聞及ぶ者なれ、如何にもして是を憑(たの)まばやと思ければ、門の内へ入て事の様(やう)を見聞(みきく)処に、内に病者有と覺て「哀れ貴(たつと)からん山伏の出来(いできた)れかし、祈らせ進(まゐ)らせん。」と云声しけり。
 玄尊すはや究竟(くきょう)の事こそあれと思ければ、声を高らかに揚て、「是は三重の滝に七日うたれ、那智に千日篭て三十三所の巡礼の為に、罷出(まかりいで)たる山伏共、路に蹈迷(ふみまよう)て此里に出て候。一夜の宿を借(かし)一日〔の〕飢をも休め給へ。」と云たりければ、内より怪(あや)しげなる下女一人出合(いであ)ひ、「是こそ可然(しかるべき)仏神(ぶつじん)の御計ひと覺て候へ。是の主(あるじ)の女房物怪(もののけ)を病せ給ひ候。祈てたばせ給てんや。」と申せば、玄尊(げんそん)「我等はその山伏にて候間叶ひ候まじ。あれに見へ候辻堂(つじどう)に、足を休て被居て候先達こそ、効験(こうげん)第一の人にて候へ。此様を申さんに子細候はじ」と云ければ、女大(おほき)に悦(よろこう)で、「さらば其先達の御房(ごばう)、是へ入進(いれまゐら)せさせ給へ」と云て、喜あへる事無限。玄尊走帰(はしりかへつ)て此由を申ければ、宮を始奉(はじめたてまつり)て、御供の人皆彼が館(たち)へ入せ給ふ。
 宮は病者の伏たる所(もと)へ御入在(おんいりあつ)て御加持あり。千手陀羅尼(せんじゅだらに)を二三反(にさんべん)高らかに被遊て、御念珠を押揉(おしも)ませ給ければ、病者自(みづから)口走て、様々の事を云ける、誠に明王の縛(ばく)に被掛たる体(てい)にて、足手(あして)を縮て戦(わなな)き、五体に汗を流して、物怪(もののけ)則(すなはち)立去ぬれば、病者忽(たちまち)に平瘉(へいゆう)す。

 主(あるじ)の夫(をっと)不斜喜(よろこう)で、「我畜(たくわへ)たる物候はねば、別(べち)の御引出物迄は叶候まじ。枉(まげ)て十余日是に御逗留候て、御足を休めさせ給へ。例の山伏楚忽(そこつ)に忍で御逃候ぬと存候へば、恐ながら是を御質(ごしち)に玉らん。」とて、面々の笈共(おひども)を取合て皆内にぞ置たりける。
 御供の人々、上には其気色を不顕(あらわさず)といへ共、下には皆悦思へる事無限。角(かく)て十余日を過させ給けるに、或夜家主(あるじ)の兵衛(ひょうゑの)尉(じよう)、客殿に出て薪(たきび)などせさせ、四方山(よもやま)の物語共しける次に申けるは、「旁(かたがた)は定(さだめ)て聞及ばせ給たる事も候覧。誠やらん、大塔宮、京都を落させ給て、熊野の方へ趣せ給候けんなる。
 (熊野)三山の別当定遍僧都(ぢやうべんそうづ)は無二の武家方にて候へば、熊野辺に御忍あらん事は難成覺候。哀(あはれ)此里へ御入候へかし。      所こそ分内(ぶんない)は狭(せば)く候へ共、四方(しほう)皆嶮岨(けんそ)にて十里二十里が中(うち)へは鳥も翔(かけ)り難き所にて候。其上人の心不偽、弓矢を取事世に超たり。されば平家の嫡孫(ちゃくそん)惟盛(これもり)と申ける人も、我等が先祖を憑(たのみ)て此所に隠れ、遂に源氏の世に無恙(かたじけなく)候けるとこそ承候へ。」と語(かたり)ければ、宮誠(まこと)に嬉しげに思食(おぼしめし)たる御気色(おんきしよく)顕(あらは)れて、「若(もし)大塔宮なんどの、此所へ御憑(おんたのみ)あ(つ)て入せ給ひたらば、被憑させ給はんずるか。」と問せ給へば、戸野(とのの)兵衛、「申にや及び候。身不肖に候へ共、某(それがし)一人だに斯(かか)る事ぞと申さば、鹿瀬(ししがせ)・蕪坂・湯浅・阿瀬川(あぜがは)・小原・芋瀬・中津川・吉野十八郷の者迄も、手刺(てさす)者候まじきにて候。」とぞ申ける。
 其時宮(みや)、木寺相摸(こでらのさがみ)にきと御目合有(めくばせあり)ければ、相摸此(さがみこの)兵衛が側に居寄て「今は何をか隠し可申、あの先達の御房こそ、大塔宮にて御坐あれ」と云ければ、此兵衛尚も不審気にて、彼此の顔をつく/\と守りけるに、片岡八郎・矢田彦七、「あら熱や。」とて、頭巾(ときん)を脱で側(そば)に指置く。實(まこと)の山伏ならねば、さかやきの迹(あと)隠なし。
 
 兵衛是を見て、「げにも山伏にては御座(おは)せざりけり。賢ぞ此事申出たりける。あな浅猿(あさまし)、此程の振舞さこそ尾篭に思召候つらん。」と以外(もつてのほか)に驚て、首(こうべ)を地に着手を束ね、畳より下に蹲踞(そんこ)せり。
 
 俄に黒木の御所を作て宮を守護し奉り、四方の山々に関を居(すえ)、路を切塞で、用心密(きび)しくぞ見へたりける。






 是も猶(なほ)大儀の計畧難叶とて、叔父竹原八郎入道に此由を語ければ、入道頓(やが)て戸野(との)が語(かたらひ)に随(したがつ)て、我館(わがたち)へ宮を入進(いれまい)らせ、無二の気色に見へければ、御心安く思召(おぼしめし)て、此に半年許御座有ける程に、人に被見知じと被思食ける御支度に、御還俗(ごげんぞく)の体(てい)に成せ給ければ、竹原八郎入道が息女を、夜るのをとゞへ被召て御覺異他なり。
 さてこそ家主の入道も弥(いよいよ)志(こころ)を傾け、近辺の郷民共(ごうみんども)も次第に帰伏申たる由にて、却(かへつ)て武家をば褊(さみ)しけり。
 
 去程に熊野の別当定遍(じょうべん)此事を聞て、十津河へ寄せんずる事は、縦(たとひ)十万騎(じゅうまんぎ)の勢(せい)ありとも不可叶。只其辺の郷民共の欲心(よくしん)を勧て、宮を他所(たしょ)へ帯き出し奉らんと相計て、道路の辻に札を書て立)けるは、「大塔宮(を奉討たらん者には、非職凡下(ひしよくぼんげ)を不云、伊勢の車間庄(くるまのしょう)を恩賞に可被充行由を、関東の御教書(みきょうしよ)有之。其上に定遍(ぢやうべん)先(まづ)三日が中(うち)に六万貫を可与。御内伺候(みうちしこう)の人・御手(おんて)の人を討たらん者には五百貫、降人(こうにん)に出たらん輩(ともがら)には三百貫、何れも其日の中(うち)に必沙汰し与(あたふ)べし。」と定て、奥に起請文の詞(ことば)を載て、厳密の法をぞ出(いだ)しける。

(上・大塔宮碑・左下・竹原八郎墓・右下・戸野兵衛墓)






 夫移木(いぼく)の信(しん)は為堅約、献芹(けんきん)の賂(まひなひ)は為奪志なれば、欲心強盛(よくしんごうじやう)の八庄司共(しょうじども)此札を見てければ、いつしか心変(へん)じ色替(かはつ)て、奇(あや)しき振舞共にぞ聞へける。宮「角(かく)ては此所の御止住(おんすまい)、始終悪(あし)かりなん。吉野の方へも御出あらばや。」と被仰けるを、竹原入道、「如何なる事や候べき。」と強(しい)て留申ければ、彼が心を破られん事も、さすがに叶はせ給はで、恐懼(きようく)の中(うち)に月日を送らせ給ける。結句(けつく)竹原入道が子共さへ、父が命(めい)を背(そむい)て、宮を討奉らんとする企(くわだて)在と聞しかば、宮潛(ひそか)に十津河も出させ給て、高野の方へぞ趣かせ給ひける。


(以降は省略します。十津川も身を隠すのに必ずしも安住の地ではなくなったので、再び吉野方面へ落ちさせ給わんことが書かれています。)



 辿りついたのは吉野(奈良)金峯山寺で、ここを拠点に元弘3年正月再起を図りました。
 切目の王子より山中分入り十津川に至る紀州の地にも大和の南にも大塔宮護良親王を偲び奉り、村の名を「大塔村」と名付けた場所や宮の遺跡が点在しています。

 また、紀州の土豪は殆どが大塔宮にお味方し「南朝方」でした。
 宮は還俗前は比叡山延暦寺の座主であらせられ、比叡山延暦寺は天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持っていました。

 特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。
 このように天台宗は密教、修験道とも通じ、宮は修験者にも多勢の味方がおり、険しい山道を駆け巡る修験者の働きにより「隠れ里」におりながら、都や幕府の詳しい情報を得ていたと考えられます。
現に隠岐の島に流配された後醍醐天皇とも密な連絡がとれていたものと見られる。                 (この項終り)


※  わたしの遠い祖先が大和・春日の地から8世紀半ばに勧請してきた紀州大野郷「春日神社」(祭神・人王五代孝昭天皇の長子・天押帯日子命・「古事記=同族に春日・粟田・小野・柿本・山上・櫟本等々十数氏の祖神」・天足彦国押人命「日本書紀」大和の古代豪族・和邇氏の祖)に大塔宮が熊野落のとき、一時宮を隠し奉った伝承があり、わが遠祖「大野十番頭」衆が宮を匿い守護し奉り、大塔宮から受領名や品を下賜された記録が遺っている。
 
  近年同社境内に大野十番頭後裔の有志により「大塔宮御逗留記念碑」が建立され、毎年6月始めに同神社で「大塔宮大野(春日)十番頭まつり」が開催され、併せて海南の中世史講座が開設されています。 つぎは、このことに触れたいと思います。 

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