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2010年12月15日水曜日

17日・「熊野三山」とは(その2)?

 
さきに、「熊野」について書いたが、その地に祀られている「本宮」「速玉」および「那智」大社を総称して「熊野三山」といいます。

 同じ修験道の霊山に「出羽三山」(でわさんざん)があり山形県庄内地方にひろがる月山・羽黒山・湯殿山の総称である。また、福岡と大分に跨る英彦山(ひこさん)の3つを「三大主修験山」と呼んでいる。
 これらは、修験道を中心とした山岳信仰の場として、現在も多くの修験者、参拝者を集めている。

 このうち、ここでは本題の「熊野三山」について紹介します。
「熊野三山」はその名前からも分る通り、仏教的要素が強く、全国に約3千社余に及ぶ「熊野(くまの・ゆや)神社」の 総本社である。
 2004年7月に、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の熊野エリアの構成資産として登録された。
•熊野信仰
 熊野の地名が最初に現れるのは、さきにも述べた日本書紀の神代記で、神産みの段の第五の一書に、伊弉冉尊(いざなぎ)が死んだとき熊野の有馬村(三重県熊野市有馬の花窟神社)というところに葬られたという記述がある。 
  国家が編纂した歴史書(正史)に熊野の名が登場するのは『日本三代実録』からである。 古来から、修験道の修行の地とされてきた。 延喜式神名帳には、熊野坐(くまのにいます)神社(熊野本宮大社)と熊野速玉(くまのはやたま)大社とあり、熊野那智(くまのなち)大社の記載がないのは、那智は神社ではなく那智の大滝を修行場と見做されていたからと考えられる。
 3社が興ってくると、3社のそれぞれの神が3社共通の祭神とされるようになり、また神仏習合により、さきにも述べたように熊野本宮大社の主祭神の家都御子神(けつみこのかみ)または家都美御子神(けつみこのかみ)は阿弥陀如来、




 新宮の熊野速玉大社の熊野速玉男神(くまのはやたまおのかみ)または速玉神
(はやたまのかみ)は薬師如来。
熊野那智大社の熊野牟須美神(くまのむすみのかみ)または夫須美神(ふすみのかみ)は千手観音とされた。
 この熊野の3神は熊野三所権現と呼ばれ、主祭神以外の祭神も含めて熊野十二所権現ともいう。

※「新宮」という地名は、本宮に対する新宮ではなく、新宮市にある「神倉神社」を本宮とし速玉大社を新宮という。  
神倉神社
の歴史的な創建年代は128年頃と考えられているが、神話時代にさかのぼる古くからの伝承がある。
 『日本書紀』によれば、神倉山は、神武天皇が東征の際に登った天磐盾(あめのいわたて)の山であるという。
 このとき、天照大神の子孫の高倉下(たかくらじ)命は、神武に神剣を奉げ、これを得た神武は天照大神の遣わした「八咫烏(やたがらす)」の道案内で軍を進め、熊野・大和を制圧したとされている。

 しかし、「熊野権現御垂迹縁起」(『長寛勘文』所収)には神剣と神倉山を結びつける記述はないことから、天磐盾を神倉山と結びつける所説は鎌倉時代以降に現れたものと考えられている。
 
 熊野信仰が盛んになると、熊野権現が諸国遍歴の末に、熊野で最初に降臨した場所であると説かれるようになった(「熊野権現垂迹縁起」)。この説に従えば、熊野三所大神がどこよりも最初に降臨したのはこの地であり、そのことから熊野根本神蔵権現あるいは熊野速玉大社奥院と称された。

 平安時代以降には、神倉山を拠点として修行する修験者が集うようになり、熊野参詣記にも幾度かその名が登場する。 『平家物語』巻一〇の平惟盛熊野参詣の記事に登場するほか、応永34年(1427年)には、足利義満の側室北野殿の参詣記に「神の蔵」参詣の記述が見られる。
・熊野牛王符(くまのごおうふ)
 平安時代後期、阿弥陀信仰が強まり浄土教が盛んになってくる中で、熊野の地は浄土と見なされるようになった。
 院政期には歴代の上皇の参詣が頻繁に行なわれ、後白河院に至っては参詣は34回に及んだ。上皇の度重なる参詣に伴い熊野街道が発展し、街道沿いに九十九王子と呼ばれる熊野権現の御子神が祀られ、道中の要所には五躰王子という宿泊や催しができる大きな王子があった。
 わたしの家の近くには「藤白王子」という立派な神社があり、近くに全国鈴木姓発祥の地と云われる平安期の様式を伝える「鈴木屋敷跡」が遺る。 鎌倉時代に入ると、熊野本宮大社で一遍上人が阿弥陀如来の化身であるとされた熊野権現から神託を得て、時宗を開いた。  熊野三山への参拝者は日本各地で修験者(先達)によって組織され、檀那(だんな)あるいは道者として熊野三山に導かれ、三山各地で契約を結んだ御師に宿舎を提供され、祈祷を受けると共に山内を案内された。
  熊野と浄土信仰の繋がりが強くなると、念仏聖や比丘尼(びくに)のように民衆に熊野信仰を広める者もあらわれた。高野山では真言密教布教に「高野聖(ひじり)」という下層の僧が全国に布教に回ったが、熊野でも同じように念仏聖や比丘尼によって全国に布教された。
 「熊野神社」の末社が全国で三千社に上り、熊野の三大姓という宇井・鈴木・榎本なる姓の全国分布がこのことを物語る。 
 また観音の化身とされた牟須美神を祀る那智大社の那智浜からは観音が住むという補陀落(ふだらく)を目指して、大勢の僧侶が小船で太平洋に旅立った。 次第に民衆も熊野に頻繁に参詣するようになり、俗に「蟻の熊野詣で」と呼ばれるほどに盛んになった。 また、各社で発行される熊野牛王符(または牛王宝印(ごおうほういん)とも)は護符としてのほかに、起請文(誓約書)の料紙として使われ、この牛王符に書いた誓約を破ると神罰を受けると信じられた。



 




 熊野権現は日本全国に勧請され、各地に熊野神社が建てられた。中でも沖縄では、神社の殆どが熊野権現を祀っている。わたしは、これを黒潮の海流にのりお互いに往来があったと見ている。
  ピークは過ぎたものの盛んであった熊野信仰も江戸時代後期の紀州藩による神仏分離政策で布教をしてきた聖や山伏、熊野比丘尼の活動を規制したため衰退し、明治の神仏分離令により衰退が決定的となった。
 現在「熊野」は癒しの地、安らぎの地または蘇りの地として、世界遺産登録とも相俟って古道が整備され、この地を訪れる観光客が増えてきているのは、まことに望ましい限りである。
(つぎは、神話の時代の熊野)

2 件のコメント:

  1. 「本宮」「速玉」「那智」はお参りしました。
    熊野速玉大社のお社は案外新しかったような記憶があります。

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  2. megさん
    確かに速玉は朱塗がキレイです。メンテがいいのでしょうね
    本宮大社は桧皮葺きで素朴な落ち着いた感じがしますが、
    これに対して速玉・那智大社とも朱色が鮮やかです。
    神さびという言葉がありますが、この点からは本宮大社が
    これにピッタリ当て嵌まります。
    世界遺産登録後観光客は増えてます。
    熊野は同じ県人にも異郷の地ともいえます。

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