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2010年11月28日日曜日

28日・「天野の里」巡り(その2)

  高野山への登山ルートに高野山町石道(ちょういしみち)がある。
 慈尊院(和歌山県伊都郡九度山町)からかつらぎ町天野の里の東、二つ鳥居を通り高野山(和歌山県伊都郡高野町)へ通じる高野山の表参道で、弘法大師空海が高野山を開山して以来の信仰の道とされてきた。

 2004年7月に、高野山とともに『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録された。
また、国指定の史跡でもある。登録名は「高野山町石」。

 高野山への道標(道しるべ)として、1町(約109m)ごとに「町石」と呼ばれる高さ約3m強の五輪卒塔婆形の石柱が建てられ、高野山上の壇上伽藍・根本大塔を起点として慈尊院(九度山町)までの約22kmの道中に180基、大塔から高野山奥の院・弘法大師御廟まで約4kmの道中に36基の、合計216基の町石が置かれています。
 また、慈尊院から数えて36町(1里)ごとには、町石の近くに「里石(りいし)」が合計4基置かれています。

『天野の里の史跡群』

◎「二つ鳥居」(高野山町石道から天野の里、丹生都比売神社を展望できる)
 丹生都比売神社が鎮座する天野の里に至る山道と分岐する百二十町石付近の峠に並立している石造の鳥居で、弘仁10年(819)、弘法大師によって当初は木造で建立されたものと伝えられています。(紀伊続風土記)。ここは「天野の里」が眺望できる絶好の場所です。









◎「西行堂」と西行の「妻娘宝筐印塔」











 西行法師は、本名を佐藤義清(さとうのりきよ・1118-1190)という秀郷流武家藤原氏の出自で、藤原秀郷の9代目の子孫。
 佐藤氏は義清の曽祖父の代より称し、家系は代々衛府に仕え、また紀伊国那賀郡田仲荘の預所に補任されて裕福であった(現在は「かつらぎ町の西隣の紀の川市打田町に西行法師(佐藤義清)生誕の地と西行の銅像がある)。
 義清は宮廷に出仕する北面の武士で待賢門院の仕えましたが23歳で出家して後、妻も尼となり天野に住んだのが、康治元年(1142年)の頃です。
 西行自身は晩年、河内国向川寺に庵を結び願いどおり如月の望月の頃(2月16日)生涯を閉じました。

 西行は高野山とのゆかりが深く、白洲正子は『西行』なる著書も著していますし、辻邦生氏も大著『西行花伝』を著されている。わたしは、地元出身ということで明恵とともに西行にも関心があり両方を読んでいるが・・・
 
 白洲正子の描く西行と高野山との関係は、ざっとこんなことだと受け取っていいのだろうか!
 本題から少々横道にそれるが、<高野往来>西行は、久安五年(1149)三十二、三歳の頃から、約三十年間にわたって、高野山に住んでいた。
 といっても、都へはしじゅう往復し、吉野・熊野はいうに及ばず、遠く中国・四国まで足をのばしているのをみると、のべつ高野山で修行していたわけではない。
 
 川田順氏(歌人、実業家、住友総本社常務理事)が『西行の伝と歌』でいわれたように、その期間を「高野往来時代」と呼ぶのが適切であろう。

 そもそも西行がなぜ高野山に入ったか、それについても明確な答えはない。答えがないから研究家はさまざまの説を立てる。
 待賢門院の後生を弔うためとか、都周辺での「数奇」の生活に飽きて、仏道修行に志したとか、高野山が焼亡したので、その再建に尽力するためだとか、五来重(日本を代表する民俗学者の一人で、かつて高野山大学教授を勤めた)氏に至っては、西行を有能な高野聖(こうやひじり)と見、熱のこもった論文を書いておられる。
 高野聖というのは、早くいえば伊勢の御師や熊野比丘尼と同じように、津々浦々を遍歴して、高野山の宣伝につとめる半俗半僧の下級僧侶である。彼らは民衆の中に入って、寺の縁起や物語を説くことにより、勧進を行った特殊なグループで、芸能にすぐれていたので後世の日本文化に大きな影響を与えた。
 西行の場合は、歌をもって勧進の手段としたというのであるが、たしかにそういう一面もなかったとはいえまい。
 多くの貴族や友人に仏道に入ることを勧めているし、一品経の勧進に奔走したことも一度や二度ではない。また、高野山の建設や財政その他に関与したことも事実である。アイデンティティという言葉があるが、学者はどこかに主体性を求めなければ、筋の通った論文は書けないのかも知れない。

 私などは、いくら詳しく分析されても、説明されても、そこからはみだしてしまうものが西行にはある。枠にはまらない、これはいったい何だろう。
 あれほど内省的で、自意識過剰であった人間に、主体性がなかったとはいえないが、主体性がありすぎたために、どこにも属するのを嫌ったということはあり得る。
 したがって、高野聖の集団に入るなんてことは我慢できなかった筈で、たとえ勧進するにしても、あくまで個人的に働くことを望んだと思う。
 西行が高野山に入った前後には、全山火災に遇って、荒廃の極に達していただけでなく、金剛峰寺方と大伝方院方の二派にわかれて、紛争がつづいていた。彼が好んでそんな渦中に身を投じたとは思われず、どちらの側にも属さない状態で、広い山内の片隅にひそかに庵室を結んでいたのではなかろうか。

 雲につきてうかれのみゆく心をば
    山にかけてをとめんとぞ思ふ

 ここにいう「山」を、高野山と解すると、ともすれば身を離れて浮かれ出る心を、山の如く不動のものとしたいと、いつも願っており、たとえしばしの間でも、高野山にこもっていたのは、そのためとしか考えにくい。
 佐藤氏の領地のある紀州那賀郡田仲の庄(今の紀の川市打田町のあたり)からは、すぐ近くにそびえている親しい山であったし、同族の明算が、真言密教の大家であったことにも、深いえにしを感じていただろう。
 至って根拠に乏しい理由にすぎないが、なんとなく高野山の方へ足が向いたというのが,西行の本当の気持ちではなかったであろうか。
      ※        ※
 では,再び本題に戻って西行の妻はこの地「天野」に庵を立て読経の生活を送ったが、娘も15歳頃に母の住む天野の里で尼となり、この地で母娘ともに生涯を終えました。
  西行堂の下3mほどの所に、里人が花を供え守り続けてきた妻娘の塚がある。

ほととぎす 古きあはれの 塚二つ  青々(せいせい)

 江戸時代の西行研究家「似雲(じうん)」が、天野を訪ねた時に庵を見て次の歌を詠みました。

なく虫の 草にやつれて いく秋か 
      あまのに残る 露のやどりぞ
   
似雲(じうん)
 
 西行堂は、西行・妻娘をしのんで建てられ古くから高野山の僧や一般のお参りが多かったとされています。
天野の里人は堂の再建を繰り返し、平安時代末期より守り続けてきました。お堂は、昭和六十一年に場所を移して再建されました。
 そこで、天野の里の「丹生都比売」を想い浮かべて、即興で一句。
  
 丹生都なる 比売をたずねて 登り来し  
       天野の郷の もみじ照りはゆ 
  しげやん 

◎「西行妻娘宝篋印塔」(さいぎょうさいしほうきょういんとう)
 西行堂の下に西行の妻娘の塚があります。お堂の中には、西行法師像が祀られています。
二基の宝篋印塔は、西行の妻と娘を供養した碑で和歌山県の文化財に指定されています。
向かって右より二基は応安五年(1372年)建立され、左二基は文安六年(1449年)に建立されました












◎「鬼王・団三郎の墓」

 
 西行妻娘宝篋印塔の裏側にある数多くの五輪は、曽我兄弟の郎党、鬼王・団三郎を供養した碑です。
二人の郎党は、主人の遺骨を高野山に納めたのち天野のこの地で生涯を終えたと伝えられています。
 
 曾我兄弟の仇討ちは、建久4年5月28日(1193年)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我十郎祐成と曾我五郎時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件。赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つである。

高野山 名をだに知らで 過ぎぬべし   
       うきよよそなる わが身なりせば


◎「院の墓」













 院の墓と伝えられていますが、鳥羽天皇の皇后の侍賢門院(たいけんもんいん)の墓ではなく、院に仕えた中納言の局の墓と考えられます。

 西行が著した「山家集」には中納言の局が侍賢門院の喪に服した後、京都の小倉の住まいを捨て天野に移り住んだと記されており、久安五年1149年)の頃と推定されます。

 この地に庵を結び入寂した後、天野の里人が葬ったのがこの墓といわれています。
 ここのすぐ下に西行堂があり、西行と関係の深かった中納言の局が高野山への道、八町坂に面したここに住まいを持ったのも当然といえます。

(つづく・・・つぎは「横笛の墓」「貧者の一燈」「石造五輪卒塔婆」「真言曼荼羅石板」僧・俊寛の弟子「有王丸の墓」など・・・)

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