ブログ アーカイブ

2010年11月30日火曜日

30日・「天野の里・その他のことども)(その4)

 平成13年に「和歌山県立文書館」が第5回「文書目録」を発刊した。
この目録には奇しくも、かつらぎ町天野・「丹生家目録」と、わが「尾崎家目録」が併録され、それぞれ約130ページづゝ、総262ページの目録として、古文書については県立文書館がマイクロフィルムに収め、ひろく一般に公開している。

 また、まことに不思議なご縁といおうか「丹生家文書」を提供された(故)丹生広良氏は「丹生都比売神」の神職の傍ら高校の漢文の先生を併せ勤められ、ご自宅はわたしの家内の実家の隣である。
「丹生家文書」は「丹生都比売神社」の創建が応神天皇期とされるだけあって、古代からの文書が圧倒的な数を占め、まことに貴重な文書である。
 また、氏は生前「丹生家」の歴史を研究、その成果を書物にして出版されている。
「丹生氏」や「丹生神社」についての研究はかなりの数の学者が取り組み、地元高野山文書、早大松田壽男教授、高野山大五来重教授や丹生広良氏ご自身が長年にわたり研究の成果を『丹生神社と丹生氏の研究』(きのくに古代史研究叢書1980)として刊行されている。
 丹生広良氏自身第128代宮司を務められたので、丹生都比売神社の歴史は如何に長く続いてきたかが窺えよう。わたし自身機会があれば一度眼を通してみたく思っていたが、生来の不精でいまだその機を得ないでいる。

他に『和歌山県史』『かつらぎ町史』『高野山文書』等にも「丹生」「丹生神社」のことが記されている。そういうことで是非に「丹生都比売神社」に宮司さんをお訪ねしたく、近いうちにその機をつくりたい。これも、県立文書館が取り持つ縁と言おうか、縁は異なものというが、不思議なものである。

 そしてもう一つ、わたしの趣味の焼き物のこと。実は親父の知人の息子さんで関西外国語大学に進み、在学中に茶道に興味をもち、それが嵩じて米国の大学の造形学科に留学し帰国後しばらくして高野山の西の麓「天野の里」の「丹生都比売神社」の東となりに登窯を築き、もっぱら信楽焼の作品を焼き続けている。
知り合いということもあって、彼の初期の作陶展から案内をいただき、こんにちに至っている。

【沖康史(おきこうし)】
 

 和歌山県高野山の懐に抱かれた隠れ里上天野にて、信楽をひたすら焼き続けられる沖康史先生をご紹介します。
意図せざる窯変やビードロが彩を添え、新たなる命を吹き込まれます。多彩な作曲線を基調とした斬新なフォルム素地は、登窯により焼込まれ、信楽らしい明るい発色をまとい、野趣を感じさる作品が多く生み出されています。
(略歴)
1948年 和歌山市に生まれる
1970年 関西外国語大学卒業 在学中より茶道を通して陶芸に興味を持つ カリフォルニア州サンホゼ市立大学芸術学部に留学、造形を学ぶ
1972年 帰国後、和歌山市内にて陶芸教室を主催
1973年 高野山の山麓、上天野に登り窯を築く
1978年 上天野の地に住居を移し焼締め作品制作に専念
大阪・東京他各地にて個展を数多く開く。

 わたしは、彼が「上天野」の地に登窯を築き焼き始めた頃よりの交友であり、かれこれ30年余になるが、彼の作品を数点購入している。
 いまや東京や大阪その他各地で作陶展を開催、この世界でも全国区の作家となられたが、彼より12月3日から10日間地元で作陶展開催の案内状を頂戴している。














 久方ぶりに旧交を温めたいと思っている。丹生都比売のある天野の土は「丹生」の名前のとおり赤土(丹=赤)であるが、彼が焼く信楽焼の土も、その天野の里の土なのか、それともわざわざ信楽から取り寄せているのか、いままで陶土のことは聞いたことがないが、丹生の土地に登窯を築いたのは燃料の赤松の確保だけでなく陶土もここの土に頼っているのかも知れないとも思う。
 それでは、わたしの所蔵品を含めて「沖康史」の作品の幾つかを掲載しておこう。 





















【沖 康史作陶展】

















 

 
 
 そういう疑問を抱きつつ、天野の里を訪ねる機会をはやく持ちたいものだとはやく春が来ないかと心待ちしている昨今である。
(かつらぎ町シリーズはこれにて終わります。長らくのお付き合いありがとうございました。) 

2010年11月29日月曜日

29日・「天野の里」巡り(その3)

世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』は「紀伊山路」 「熊野三山」「高野山」「吉野・大峯」からなり、三重、奈良、和歌山の三県にまたが古代から自然崇拝に根ざした神道(山岳信仰・修験道)、中国から伝来し我が国で独自の展開を見せた仏教(真言密教)、多様な信仰の形態を育んだ神仏の霊場であり、熊野参詣道、高野山町石道、大峯奥駈道などの参詣道とともに広範囲にわたって極めて良好に遺存している世界的にも比類のない事例であります。 
また、それらが今も連綿と民衆の中に息づいている点においても極めて貴重な資産であります。    

 そこで「天野の里」も「丹生都比売神社」、高野山への「町石道」も神を崇める信心者、仏教信者だけでなく修験者(山伏)も行き交う道だったに相違ない。 いまにそうした遺跡が古くから数多く遺されていることからもうなずけよう。 丹生都比売神社の境内の東の一隅には「大峰山修験道行者碑群」「真言曼荼羅板碑」そして「脇の宿石厨子」が遺されているのはこれらの証といえよう。

◎『大峯修験者の碑・光明真言曼荼羅板碑・脇ノ宿厨子
・「大峯修験者の碑」
 高い石柱の四基は、大峯修験者(山伏)が大峯入峯に 際し建てた碑で県の文化財指定されています。
大峰修験者ゆかりの碑。100名余りの修験者と共に大峰に入るたびに1基ずつ建てられました。
 鎌倉時代全国的に盛んとなった修験道(山伏)の中で、高野山の修験者によって、200人に及ぶ人々が参加し、大峰修行して建立されたものと言われています。 丹生都比売神社輪橋(太鼓橋)のそばにあったものが、大正年間に、この地に移されたものです。
・「光明真言曼荼羅板碑」 
 





 





光明真言曼荼羅碑(こうみょうしんごんまんだらひ)といい1662年に建立、時計の針の方向に梵字で光明真言が 刻まれています。
・「脇ノ宿石厨子」



 内部には、葛城修験の御本尊「役の行者」の石像が 安置されています。




◎「横笛の恋塚・横笛の墓」
 平重盛(たいらのしげもり)に仕える若侍・斎藤時頼(さいとうときより)(滝口入道(たきぐちにゅうどう))と建礼門院(けんれいもんいん)の官女・横笛(よこぶえ)との悲恋物語は有名です。
 庵のそばに葬られたという塚、それが「横笛の恋塚」です。
その後、さまざまな女性から供養されたのか、古びた五輪が積み重ねられ苔にむした「墓」が建っています。


 
 







 横笛との恋に悩んだ斉藤時頼はその思慕を断ちきるべく仏門に入り治承三年(1179年)高野山に入った時頼のあとを慕い、横笛も黒髪をおろして法華寺(奈良)に入って尼となりました。
 のち高野山に近い天野の里に庵を結んだのでしょう。
横笛が尼になったことを知った滝口入道はこんな歌を贈りました。

  そる(剃る)までは 恨みしかども あづさ弓 まことの道に 入るぞうれしき

  そる(剃る)とても 何か恨みむ あづさ弓 引きとどむべき 心ならねば


下の歌が横笛の返歌です。
 二人は現実的には結ばれることはありませんでしたが、魂は仏道を通してしっかりと通い合っていたといえます。間もなく横笛は亡くなりますがきっと安らかな死であったことでしょう。滝口入道が二十歳、横笛十七歳の時でありました。
 横笛の、病のとこに、滝口入道から送られてきた和歌は、
<滝口入道からの歌>         
          
  高野山(たかのやま) 名をだに知らで すぎぬべし                                      憂(う)きをよそなる 我身なりせば                                                                                <横笛の返歌>

  やよや君(きみ) 死すれば登る 高野山(たかのやま)
           恋も菩提(ぼだい)の 種(たね)とこそなれ       

 
 この和歌のとおりに亡くなった横笛は、一羽のうぐいすとなって高野山大円院の梅の木に停まり、しばらくうつくしい声でさえずっていた。やがてよわよわしく二、三度はばたくと、庭の井戸に落ちて水にしずんだ。 はっと夢から覚めた入道は、井戸からうぐいすをすくい上げ、変わりはてた横笛の姿に無念の涙をながした滝口入道、滝口入道が修行した高野山大円院には「横笛」に関わる遺跡が遺されています。

◎「貧者の一灯(お照の墓)」

 高野山奥の院に、千年もの間消えることもなく光り輝いている「貧女の一燈」といわれるものがあります。
その燈を納めた娘「お照」の墓と伝えられる塚が天野にあります。
 

 





 


お照は、槇尾山のふもと坪井村に捨てられた捨子でした。16歳の時に養父母と死別し、その菩提を弔うために、自分の髪を売って「貧女の一燈」を献じたもので、長和5年(1016年)の頃でした。
 後日、天和2年(1682年)に妙春尼(みょうしゅんに)によりお照の実父母の供養塔が建てられ、貞享5年(1688年)には天野に住む僧浄意(じょうい)によって、女人の苦しみを救うための代受苦(だいじゅく)の行を終えた旨の碑が建てられています。お照の墓のそばに供養を兼ねて建てられたものと考えられます。この碑の上10mの所には、お照の実父母の墓と伝えられるものが残されています


◎「有王丸の墓(僧・俊寛の弟子)」
 天野社より、八町坂を行くこと300m、道のそばに数基の碑が並んでいます。
桜の木の下に静かに眠るのは、有王丸と言われています。
 京都・鹿ヶ谷の山荘での平清盛打倒の謀議が破れて鬼界ヶ島(きがいがしま)に流された僧俊寛(しゅんかん)の遺骨を、弟子の有王丸(ありおうまる)が治承元年(1177年)、高野山に納めました。その後、法師となって主の菩提を弔いました。
 俊寛の娘も、12歳で天野の別所で尼となったことが「源平盛衰記」に記されています。
 「姫君出家の志ありと仰せければ、有王鬼角して高野のふもと、あまのの別所という山寺へ具し奉り出家し給ひにけり……云々」、
 「歌舞伎」の世界でも、とりわけ有名な『俊寛』は松本幸四郎や中村勘三郎によって演じられ、ことに勘三郎は「俊寛」が流罪で終焉の地「鬼界ヶ島」での現地公演に情熱を傾けておられます。

 流罪の罪を赦されて鬼界ヶ島を離れる最後の舟に乗ることを許されず、ひとり島に取り残された俊寛が舟と別れを告げ一人寂しく舟を見送る俊寛の形相には鬼気迫るものがあり、最高の見せ場となっています。

 僧・俊寛は元々真言宗の僧侶であっただけに、その弟子「有王丸」は師の遺骨を分骨して総本山である高野山に納骨しようと遠路はるばるこの地を訪ね天野の里に庵を結び主の菩提を弔い自身もこの地が終焉の場所になったのでしょうか?
 歌舞伎の世界に疎いわたしですので、この物語はmegさんに教えを乞うことにしたいです。
 「天野の里」については、この郷は熊野古道と同じく古来より有名無名の史跡が数多く遺され、暖かい村人の信仰の心に支えられ、こんにちに及んでいます。まだまだ紹介する処がありますが、今月中に終わりたく最後に30日の「天野の里」の雑録でひとまず幕を閉じることにいたします。ここまで駆け足で来ましたが、明日もどうぞご覧下さい。

2010年11月28日日曜日

28日・「天野の里」巡り(その2)

  高野山への登山ルートに高野山町石道(ちょういしみち)がある。
 慈尊院(和歌山県伊都郡九度山町)からかつらぎ町天野の里の東、二つ鳥居を通り高野山(和歌山県伊都郡高野町)へ通じる高野山の表参道で、弘法大師空海が高野山を開山して以来の信仰の道とされてきた。

 2004年7月に、高野山とともに『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録された。
また、国指定の史跡でもある。登録名は「高野山町石」。

 高野山への道標(道しるべ)として、1町(約109m)ごとに「町石」と呼ばれる高さ約3m強の五輪卒塔婆形の石柱が建てられ、高野山上の壇上伽藍・根本大塔を起点として慈尊院(九度山町)までの約22kmの道中に180基、大塔から高野山奥の院・弘法大師御廟まで約4kmの道中に36基の、合計216基の町石が置かれています。
 また、慈尊院から数えて36町(1里)ごとには、町石の近くに「里石(りいし)」が合計4基置かれています。

『天野の里の史跡群』

◎「二つ鳥居」(高野山町石道から天野の里、丹生都比売神社を展望できる)
 丹生都比売神社が鎮座する天野の里に至る山道と分岐する百二十町石付近の峠に並立している石造の鳥居で、弘仁10年(819)、弘法大師によって当初は木造で建立されたものと伝えられています。(紀伊続風土記)。ここは「天野の里」が眺望できる絶好の場所です。









◎「西行堂」と西行の「妻娘宝筐印塔」











 西行法師は、本名を佐藤義清(さとうのりきよ・1118-1190)という秀郷流武家藤原氏の出自で、藤原秀郷の9代目の子孫。
 佐藤氏は義清の曽祖父の代より称し、家系は代々衛府に仕え、また紀伊国那賀郡田仲荘の預所に補任されて裕福であった(現在は「かつらぎ町の西隣の紀の川市打田町に西行法師(佐藤義清)生誕の地と西行の銅像がある)。
 義清は宮廷に出仕する北面の武士で待賢門院の仕えましたが23歳で出家して後、妻も尼となり天野に住んだのが、康治元年(1142年)の頃です。
 西行自身は晩年、河内国向川寺に庵を結び願いどおり如月の望月の頃(2月16日)生涯を閉じました。

 西行は高野山とのゆかりが深く、白洲正子は『西行』なる著書も著していますし、辻邦生氏も大著『西行花伝』を著されている。わたしは、地元出身ということで明恵とともに西行にも関心があり両方を読んでいるが・・・
 
 白洲正子の描く西行と高野山との関係は、ざっとこんなことだと受け取っていいのだろうか!
 本題から少々横道にそれるが、<高野往来>西行は、久安五年(1149)三十二、三歳の頃から、約三十年間にわたって、高野山に住んでいた。
 といっても、都へはしじゅう往復し、吉野・熊野はいうに及ばず、遠く中国・四国まで足をのばしているのをみると、のべつ高野山で修行していたわけではない。
 
 川田順氏(歌人、実業家、住友総本社常務理事)が『西行の伝と歌』でいわれたように、その期間を「高野往来時代」と呼ぶのが適切であろう。

 そもそも西行がなぜ高野山に入ったか、それについても明確な答えはない。答えがないから研究家はさまざまの説を立てる。
 待賢門院の後生を弔うためとか、都周辺での「数奇」の生活に飽きて、仏道修行に志したとか、高野山が焼亡したので、その再建に尽力するためだとか、五来重(日本を代表する民俗学者の一人で、かつて高野山大学教授を勤めた)氏に至っては、西行を有能な高野聖(こうやひじり)と見、熱のこもった論文を書いておられる。
 高野聖というのは、早くいえば伊勢の御師や熊野比丘尼と同じように、津々浦々を遍歴して、高野山の宣伝につとめる半俗半僧の下級僧侶である。彼らは民衆の中に入って、寺の縁起や物語を説くことにより、勧進を行った特殊なグループで、芸能にすぐれていたので後世の日本文化に大きな影響を与えた。
 西行の場合は、歌をもって勧進の手段としたというのであるが、たしかにそういう一面もなかったとはいえまい。
 多くの貴族や友人に仏道に入ることを勧めているし、一品経の勧進に奔走したことも一度や二度ではない。また、高野山の建設や財政その他に関与したことも事実である。アイデンティティという言葉があるが、学者はどこかに主体性を求めなければ、筋の通った論文は書けないのかも知れない。

 私などは、いくら詳しく分析されても、説明されても、そこからはみだしてしまうものが西行にはある。枠にはまらない、これはいったい何だろう。
 あれほど内省的で、自意識過剰であった人間に、主体性がなかったとはいえないが、主体性がありすぎたために、どこにも属するのを嫌ったということはあり得る。
 したがって、高野聖の集団に入るなんてことは我慢できなかった筈で、たとえ勧進するにしても、あくまで個人的に働くことを望んだと思う。
 西行が高野山に入った前後には、全山火災に遇って、荒廃の極に達していただけでなく、金剛峰寺方と大伝方院方の二派にわかれて、紛争がつづいていた。彼が好んでそんな渦中に身を投じたとは思われず、どちらの側にも属さない状態で、広い山内の片隅にひそかに庵室を結んでいたのではなかろうか。

 雲につきてうかれのみゆく心をば
    山にかけてをとめんとぞ思ふ

 ここにいう「山」を、高野山と解すると、ともすれば身を離れて浮かれ出る心を、山の如く不動のものとしたいと、いつも願っており、たとえしばしの間でも、高野山にこもっていたのは、そのためとしか考えにくい。
 佐藤氏の領地のある紀州那賀郡田仲の庄(今の紀の川市打田町のあたり)からは、すぐ近くにそびえている親しい山であったし、同族の明算が、真言密教の大家であったことにも、深いえにしを感じていただろう。
 至って根拠に乏しい理由にすぎないが、なんとなく高野山の方へ足が向いたというのが,西行の本当の気持ちではなかったであろうか。
      ※        ※
 では,再び本題に戻って西行の妻はこの地「天野」に庵を立て読経の生活を送ったが、娘も15歳頃に母の住む天野の里で尼となり、この地で母娘ともに生涯を終えました。
  西行堂の下3mほどの所に、里人が花を供え守り続けてきた妻娘の塚がある。

ほととぎす 古きあはれの 塚二つ  青々(せいせい)

 江戸時代の西行研究家「似雲(じうん)」が、天野を訪ねた時に庵を見て次の歌を詠みました。

なく虫の 草にやつれて いく秋か 
      あまのに残る 露のやどりぞ
   
似雲(じうん)
 
 西行堂は、西行・妻娘をしのんで建てられ古くから高野山の僧や一般のお参りが多かったとされています。
天野の里人は堂の再建を繰り返し、平安時代末期より守り続けてきました。お堂は、昭和六十一年に場所を移して再建されました。
 そこで、天野の里の「丹生都比売」を想い浮かべて、即興で一句。
  
 丹生都なる 比売をたずねて 登り来し  
       天野の郷の もみじ照りはゆ 
  しげやん 

◎「西行妻娘宝篋印塔」(さいぎょうさいしほうきょういんとう)
 西行堂の下に西行の妻娘の塚があります。お堂の中には、西行法師像が祀られています。
二基の宝篋印塔は、西行の妻と娘を供養した碑で和歌山県の文化財に指定されています。
向かって右より二基は応安五年(1372年)建立され、左二基は文安六年(1449年)に建立されました












◎「鬼王・団三郎の墓」

 
 西行妻娘宝篋印塔の裏側にある数多くの五輪は、曽我兄弟の郎党、鬼王・団三郎を供養した碑です。
二人の郎党は、主人の遺骨を高野山に納めたのち天野のこの地で生涯を終えたと伝えられています。
 
 曾我兄弟の仇討ちは、建久4年5月28日(1193年)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我十郎祐成と曾我五郎時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件。赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つである。

高野山 名をだに知らで 過ぎぬべし   
       うきよよそなる わが身なりせば


◎「院の墓」













 院の墓と伝えられていますが、鳥羽天皇の皇后の侍賢門院(たいけんもんいん)の墓ではなく、院に仕えた中納言の局の墓と考えられます。

 西行が著した「山家集」には中納言の局が侍賢門院の喪に服した後、京都の小倉の住まいを捨て天野に移り住んだと記されており、久安五年1149年)の頃と推定されます。

 この地に庵を結び入寂した後、天野の里人が葬ったのがこの墓といわれています。
 ここのすぐ下に西行堂があり、西行と関係の深かった中納言の局が高野山への道、八町坂に面したここに住まいを持ったのも当然といえます。

(つづく・・・つぎは「横笛の墓」「貧者の一燈」「石造五輪卒塔婆」「真言曼荼羅石板」僧・俊寛の弟子「有王丸の墓」など・・・)

2010年11月26日金曜日

26日・「天野の里」巡り(その1)紀之国一之宮『丹生都比売神社』

 さきに「天野の里」の紹介に当たって白洲正子の『かくれ里』から丹生都比売神社を訪ねる旅の一節を引用したが、彼女が訪ねる目的であった「丹生都比売神社」から、まず始めなくてはいけないだろう。
 
 なんといっても「丹生都比売神社」の創建は高野山よりはるかに古く、そこに祀られている神々は空海が拓いた「高野山」の産土神であり、空海が高野山を創建するに当たって広大な山林を提供するとともに狩人の姿に身を変え白・黒二匹の犬を従えて空海を案内したともいい伝えられ、その神の名は別名「狩場明神」とも称される。
 この丹生都比売神社にまつわる史跡や高野山はかつて女人禁制であったため、高野山に入れず天野の里に庵を結ぶ女人の史跡や歌人・西行庵や西行の妻女の宝筐印塔その他歴史的に知られた人の史跡が、いまに数多く遺されている。

 こういう訳でまずは「丹生都比売神社」から紹介し、高野山へのかつての登山道「町石道」「二つ鳥居」つづいて「西行庵」「西行妻娘の宝筐印塔」「院の墓」滝口入道との悲恋の「横笛の墓」僧・俊寛の家来「有王丸の墓」「貧者の一燈」等、白洲正子の「かくれ里」に記された史跡を順次紹介することにしてゆきます。

丹生都比売神社
 天野社・天野大社とも称される丹生都比売神社〔にうつひめじんじゃ〕はその創建は古く今から1700年ほど前の応神天皇のときとされ、高野山一山の地主神であり、 和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野に鎮座する。(クリックで拡大)

 天野の里は四方を山に囲まれた標高約450mの盆地で、かつては高野山の表参道であった。今ものどかな風情を漂わせる山里である。







 




 







 主祭神の「丹生都比売大神〔にうつひめのおおかみ〕」(丹生明神)は、天照大神の妹神である稚日女尊〔わかひるめのみこと〕とされる。また、第二殿には「高野御子大神〔たかのみこのおおかみ〕」(高野明神、別名狩場明神)が配祀されている。(クリックで拡大)
 さらに鎌倉時代、行勝上人によって「大食都比売大神〔おおげつひめのおおかみ〕」(気比明神)、「市杵島比売大神〔いちきしまひめのおおかみ〕」(厳島明神)が第三殿、第四殿に勧請されたところから、四所明神とも呼ばれた。(クリックで拡大)


 





 
 
 。丹砂は朱砂・辰砂ともいい、水銀の原石である硫化水銀のことで、古くから朱色の染料の材料とし丹生とは丹(丹砂)の生ずるところを意味するて用いられた。もともと丹生都比売神は、丹砂の採掘を掌る丹生氏によって祀られていたと考えられる。

『日本書紀』神功皇后摂政元年二月条に「天野祝〔あまののはふり〕」の名が見えることから、8世紀には天野祝氏によって奉斎されていたものとみてよいだろう。
 
 「丹生都比売大神」は神代に紀伊国伊都郡奄田に降臨し、御子の「高野大神」とともに大和・紀伊を巡った後、天野原に鎮まったとされる。
 また、『播磨国風土記逸文』によれば神功皇后の新羅平定に際して、丹生都比売神が武器や衣装、船を赤く染めるようにと託宣し、これによって軍の威力が増した。
 その功に対し、紀北地方の広大な土地が神領として定められたという。

 弘法大師の高野山開創に際しては、「高野御子大神」が狩人の姿の「狩場明神」(かりばみょうじん〕として現れ、白・黒二匹の犬に高野山まで案内させたと伝えられる。
そして、丹生都比売大神から高野山を譲り受けた大師は、丹生明神・高野明神を高野山一山の鎮守神として祀ったとされる。弘仁7年(816)には、天野社近くに曼荼羅院を建立し、翌年高野山に移したと伝えられる。

 天暦6年(952)、落雷により高野山奥の院の御廟が消失した際、天野検校と呼ばれた雅真僧都は天野社に住み、高野山の復興に尽力した。
 また、正暦5年(995)の落雷による高野山大火のため、長保3年(1001)から16年間にわたって高野山は人の住めない状況になった。この時、一山の僧侶は天野社に住んで、夏場のみ奥の院御廟の供養を行ったという。
 この時、復興の中心となったのが祈親上人である。神社の近くには、祈親上人の復興にまつわるエピソードとして有名な「貧女の一灯」のお照のものと伝わる墓が残っている。

 以来、丹生都比売神社は高野山と深い関わりをたもちながら繁栄した。皇室・公家の崇敬も大変篤く、貞観元年(859)に従四位下を授けられ、寿永2年(1183)には従一位となる。延喜式においては名神大社に列し、祈年・月次・新嘗の幣に預かる。

 承元2年(1208)、二位尼(北条政子)が熊野詣での帰りに天野社に参拝。この時、行勝上人の懇請により浄財を喜捨し、気比明神と厳島明神が勧請されたという。また、元寇に際しては託宣があり、祈祷の功によって幕府より神領の寄進があった。

 しかし、明治の神仏分離令で高野山の手を離れてからは厳しい時代を迎えた。大正13年(1924)に官幣大社に昇格。


 楼門と本殿は室町時代の建築で、国の重要文化財に指定されている。特に本殿は、一間社春日造りでは日本最大とされる。内部に内宮殿があり、その中にご神体を安置するという珍しい形式である。
 その他にも、国宝・重要文化財を多数所蔵するが、東京・京都・奈良の国立博物館や高野山霊宝館に展示されているものも多い。

 平成14年には境内全体が国の史跡に指定されている。さらに平成16年(2004)7月には、高野山や熊野三山などとともに『紀伊山地の霊場と参詣道』として世界遺産に登録された。

 なお、丹生明神・高野明神は、弘法大師によって高野山壇上伽藍内の明神社にも祀られている。
 それにしても、大いに気になるのは「丹生」と「空海」こと弘法大師の関係である。
 高野山創設伝説にある、丹生都比売から広大な土地を借受け、その子高野明神(狩場明神)が狩人に姿をかえ空海を案内したとするのは、何を意味するのであるうか?知れば知るほど、謎は深まるばかりである。

。(クリックで拡大)

(ご祭神・ご神徳)                          
第一殿 丹生都比売大神 にうつひめのおおかみ・別名(丹生明神) にうみょうじん
    諸々の災いを祓い退け、一切のものを守り育てる女神、健康・長寿と農業・機織の守り神

第二殿 高野御子大神 たかのみこののおおかみ・別名(狩場明神) かりばみょうじん
    弘法大師を高野山に導いた人生の幸福への導きの神、
第三殿 大食都比売大神 おおげつひめのおおかみ・別名(気比明神) けひみょうじん
    あらゆる食物に関する守り神 食べ物を司る女神

第四殿 市杵島比売大神 いちきしまひめのおおかみ・別名(厳島明神) いつくしまみょうじん
    財運と芸能の女神、七福神の弁天様としても知られる

若宮  行勝上人 ぎょうしょうしょうにん 
    鎌倉時代、第三殿・第四殿の御祭神を勧請する等、神社の発展に尽力した真言宗の僧侶

境内社 佐波神社 さわじんじゃ 
(合祀) 明治時代に上天野地区の諸社を合せ祀った

(つぎは高野山町石道、西行堂、西行妻女宝筐印塔他古くからの史跡を紹介します)

2010年11月24日水曜日

24日・「かくれ里」の名に相応しい「天野の里」ーかつらぎ町ー

[天野の里]
は、和歌山県北東部のかつらぎ町南部にあり、道の駅「紀ノ川・万葉の里」から国道24号線を約800m東進し紀ノ川を渡り南へ車で15分、高野山の西ふもと標高約450mに位置しています。 
 四季折々のどかな田園風景が広がる天野盆地は『にほんの里100選』にも選ばれています。
1998(平成元年)年には、環境庁(現環境省)から『ふるさと生きものの里』に認定され、初夏、今なお清い流れを守る真国川では源氏ボタルの乱舞が見られ、豊かな自然に恵まれた地域です。

「日本の原風景」と謳われる地は多いですが、特に天野は四季折々の変化に富み、ことに春の新緑、秋のまばゆいばかりの稲穂の波は美しく、まさに桃源郷を想わせます。
                (クリックで拡大)


 







 かつて空海を高野山にみちびいたとされる真言密教の守り神「丹生都比売神社」が鎮座する天野の里は、開山後、高野の「かくれ里」と呼ばれてきました。








 高野山が女人禁制であったことから出家していつの日か逢えることを楽しみに、高野の麓、天野に移り住む人も多く、それにまつわる多くの史跡が点在します。 
 また、源平時代の史跡もあり、まさに歴史ロマンの里・信仰の里でもあります。

 白洲正子さんは、その著書『かくれ里』(1971年・新潮社)で、天野の里にある「生都比売神社」を訪ねる一節で、

・・・「雨の後とて、道は悪かった。それは覚悟の前なのだが、赤土なのですべりやすい。
せまい谷川にそって行くと、やがて「丹生都比売神社参道」と書いた道しるべがあり、そこから左に折れて急な坂道を登って行く。道はいよいよせまくなり、山は深くなって心細くなるばかりだが、引き返すことはできない。
 まだかまだかと思ううち、峠を二つばかり越えた所で下り坂となり、いきなり目の前が明るくなった。見渡す限り、まばゆいばかりの稲の波だ。
 こんな山の天辺に、田圃があろうとは想像もしなかったが、それはまことに「天野」の名にふさわしい天の一角に開けた広大な野原であった。もしかすると高天原も、こういう地形のところを いったのかも知れない。 周囲をあまり高くない美しい姿の山でかこまれ、その懐に抱かれた天野の村は眠っていた。 
「ずいぶん方々旅をしたが、こんなに閑でうっとりするような山村を私は知らない」(中略)・・・その後に会った村の人々もみな暖かい心の持ち主で、出来ることなら私は、天野に隠居したいと思っているくらいである。やはり丹生都比売は、ご縁が深い神なのか。」と記しました。
 
 彼女がこの地を訪ねたのは40年も前のことだが、いまでも「天野の里」はあまり変わっていない。ただし、彼女が訪ねた道は、この地が世界遺産・『紀伊山地の霊場と参詣道』(高野山ブロック)に登録されるにつれて道がよくなり、訪れる客は増えたのは確かだが、いまも長閑な鄙びた里に替りがない日本の原風景なのである。  
(クリックで拡大)

 それでは、40年以上前,白洲正子氏が「天野の里」を訪ね歩きした「丹生都比売神」を主に、彼女が訪れた旅の再現としてその足跡を訪ね歩きたい。
 白洲正子ファン、「西行」ファンにとってはタマらない魅力的な旅となること請け合いであろう。
 今回は「天野の里」の紹介(総論)にとどめ、次回以降に白洲正子氏が訪ね歩いた史跡を訪ねる旅を画像入りで再現することにしよう。